master only - Admin*Write*Comment |
All that be for Haruhi. @千極一夜 |
- The blog site of only an Sengoku Musou2 (Samurai Warriors 2). By Haruhi -
殿ばっかりです
すんません
この時代の男色は、人が息するのと同じくらい当たり前の風習と見られてました
仕えた主君に寵愛(性的愛情)を受けるのが、美少年の条件でもあったようです
狸親父も長く井伊直政を愛していたそうですし、いつまでも相手をさせたかったから元服を遅くさせたとの説もあるくらい
親愛なる三成さんの容貌もだいたいわかって来て、不細工じゃなかったのが嬉しい
この頃の寺と言うのは女色を禁じられてましたが、男色は禁じられてなかったので武家より激しかったようです
検索した時くらいにしか読まない2chには中々目にできないような歴史の裏と言うものを知っている人が多いようで、ここでも面白いものが色々発見できます
秀吉の小姓になる前は寺の小姓をやっていた三成さん
サイトによっては「家が貧乏だったから口減らしで寺に預けられていた」と言うのもあるし、わたしが買った本の中では「頭が良いからその才能を伸ばそうと、寺に預けられていた」(寺では様々な学問を学ばされるようです)と言うのもあるし
と言うことは、男色のメッカ(聖地?)である寺に居たのだから、当然相手はさせられていたのだろうか・・と思い、じゃぁ、三成さんの相手をした小姓とかも居るのかしらと検索してみましたが、見付けられずに他の事実が判明
やっぱり三成さんも寺小姓時代、男色の相手をしていたようです
しかも、秀吉が三成さんを見初めた時の感想のようなものもあって、「美少年で頭が良い三成を一目見て気に入り、召抱えた」そうです
戦国時代で男色に手を伸ばさなかったのは秀吉くらいなものだった。とWikiにも色んなサイトにも書かれてますが、それは当時『男色は武士としての嗜みであり女色より高尚な行為だった』とあり、秀吉は男色のもできない愚か者と、徳川幕府が秀吉を蔑んだ書き方を好んだそうです
つまり、秀吉も一人前に男色に手を出しており、その相手が三成さんだったそうです
(そこでは「だったのではないか」と言う仮説風にされてましたが)
と言うことは、男には困らない(ヘンな表現だが)寺でも男色の相手を務め、秀吉の相手もしてたと言うのだから、やっぱり三成さんは男前だったんだわ〜!
と、三成さんが美男子だった確たる証拠を掴み、かなり嬉しいわたしです
いえ、男色がどうのとではなく、男色の相手ができるのは数居る男の中でもやはり、選りすぐりの美少年だけだと思っただけのことでございます
死ぬまで秀吉の寵愛を受けた三成さん
(肉体関係の有無はともかくとして)
西洋風の男前だったからか、信長にも気に入られていたと言うのもあながち嘘とも思えなくなって来た
信長が西洋かぶれだったから、三成さんはストライクゾーンど真ん中だったんだろうなぁ・・と思った
そんでもって、絶対食われてるとも思った
やおい的な意見ではなくて、男に食われるのが美少年の条件のような時代だったから、三成さんって相当の男前だったんだわーと、嬉しくなっただけです
その上中年期過ぎても童顔だったらしいし
三成さんの隠れた事実の端っこを掴んだのと同時に、面白い検証も見付けた
子種を残すのは必須だったこの時代に、独身、あるいは子供が極端に少ない武将の何れもが『男色家』だったそうだ
昨日読んだところでは、鬼柴田こと柴田勝家は信長から「衆道も、たいがいにしとけ」と言う内容の手紙をよこされたらしい
信長に言われたら、お仕舞のような気がした(っぷ
後家(結婚が遅い)で、その上子供も居ないし
柴田
直江兼続も結婚が遅かった
と言うか、景勝の命令で婿養子に行ったのが直江家
夫婦仲は良かったのに、子供が一人だけ
奥さんの体の都合(例えば子供が生めない体になったとか)だったのかも知れないけど、側室も居ない武将は多かれ少なかれ男色家なのだそうだ
そもそも兼続は、直江家の断絶を惜しんだ景勝の命令で知りもしない女性と結婚したのだし、奥さんとの間に愛情があったとしても肉体的な繋がりは薄いんじゃないかと思った
その兼続だが、幼少の頃より優れた容姿の持ち主だったのだから、謙信の寵愛(肉体的愛情)を受けただとか書かれていたが、謙信そのもの衆道は、周りがうるさいからとりあえずやってただけのことのようです
特に男が好きってわけじゃなさそうです
しかしまぁ、場所によっては『美少年バカ』とまで書かれてるし、どっちが正しいのかちょっとわかんないです
で、その謙信に寵愛(特に可愛がられたいた)のが北条氏秀(上杉景虎)と景勝で、この二人とどんな関係があったのかは知りませんが、とりあえず兼続が寵愛を受けたと言う記述はありませんでした
じゃぁ、兼続は景勝に寵愛されていたのかと言うと、景勝には景勝でお気に入りの小姓(男色の相手)が居たそうで、兼続は相手にされてなかったそうです
なんだか、直江家の養子に進めたのも、厄介払いされたんじゃないかって気がしなくもないけど、景勝に盲目的な兼続はきっと、「直江を守れるのはお前だけだ。信用できるからこそ、お前を婿にやるのだ」とか言われて、ころっと騙されたんじゃないかと勝手に想像してしまって、なんか笑ってしまう
いくら主君の命令でも、縁談じゃなく強引なこの話を受けるだなんて、よぽど景勝が好きだったのねー
その後、直江家を守ることより上杉の家を守ることに一生懸命だし
なんだか、報われない愛よねぇ・・(しみじみ
謙信にも景勝にも相手にされてなかった兼続
まぁ、全く相手にされなかったわけでもなく、可能性としては『景勝&兼続』のようですが、信憑性には欠けるようです
なんか、気の毒になって来た・・・・・・・・・・・・・・・
その景勝も奥さん一人に側室一人、子供も一人
男色家だったそうです(汗
西軍敗北の原因を作った小早川秀秋は、伊達政宗の側近・小十郎の息子のケツを追い駆け回してたとか、ガラシャの旦那さんも衆道やってたとかなんかもう、笑ってしまって仕方がない
秀秋は関ヶ原当時19歳だったのに、それでも男のケツ追い駆け回せるだけの元気があったんだなーとしみじみ
で、『二代重長譜』を検索したら小十郎が出て来て、「男からも惚れられるほど美男子だった」とあり、何だよ、戦国時代って男前ばっかりかよとやや、うんざり
しかも秀秋が男色家だったことも判明
秀秋ー!
あたしゃ、悲しいよ・・(Byおね)
で、政宗と二代目小十郎は衆道の間柄
(『小十郎』は代々受け継がれた通称で、政宗の相手は片腕で有名な小十郎ではなく、その息子のこと)
ぐっじょぶ
とりあえずわかった有名武将では、どこにでも書かれてるものばっかりで恐縮だけど
武田信玄―春日虎綱(高坂昌信)-信玄の虎綱宛のラブレターが残ってるのは有名な話
織田信長―前田利家-『亜相公御夜話』に残されている
伊達政宗―片倉重長(二代目小十郎)-重長が浮気したと勘違いして摂関し、それを謝罪する手紙が残っているらしい
徳川家康―井伊直政-直政に未練があったので、元服を遅らせたらしい
これは確たる証拠があるようで、揺ぎない事実
豊臣秀吉―石田三成(信長にも掘られてた可能性あり?)
上杉謙信or景勝―直江兼続(どっちに掘られてたのか定かではない)
「かも知れない」程度の話ですが、無きにしも非ずな感覚
ぶっちゃけ男色には興味ないし、覗いてみたいとも思わないので、Wikiにも書かれてるカップルしか書きません
探せば他にも色々出て来ましたけどね
阿国さんの愛人で有名な名古屋山三郎と蒲生なんたら(名前忘れた・・)とか
当たり前な行為だったけど、今となっては隠れた文化になり、やおい族のエサにしかならない衆道ですが、この当時は命を投げ打ってでも自分を守ってくれる人間の存在が必要だったので、体を繋げることで絆を深めたのでしょう
でもまぁ、信長(当時の男前の代表格)ならともかく、猿顔の秀吉に気持ち良いことされたってあんまり燃えないんじゃないかと思うのはあたしだけかも知んないけど、それでも気持ちよかったのね、三成さん・・
ここまでで大体見付かった戦国時代の男前
春日虎綱(高坂昌信)-お屋形様のお墨付きじゃー!
織田信長-余は女ではないぞよー!
前田利家-マッチョも範囲内!(By信長)
長宗我部元親-『姫若子』=『美少年』かどうかは、わからんきにのー!でも一応じゃー!
浅井長政-藤の花もぞっこんじゃー!
北条氏秀(上杉景虎)-毘沙門天のお墨付きじゃー!
石田三成-魔王&太閤&観音寺のお墨付きじゃー!
直江兼続-そう書いてるサイトが多すぎじゃー!
井伊直政-狸もぞっこんじゃー!
片倉重長-独眼竜のお手付きじゃー!
2chに書かれてた男前
明智光秀-さすがガラシャのおとん
宇喜多親子-意外だー
大野治長-誰
木村重成-目から鱗
片倉景長-初代小十郎?
松永久秀-名器で爆死
また見付かったら追加します
すんません
この時代の男色は、人が息するのと同じくらい当たり前の風習と見られてました
仕えた主君に寵愛(性的愛情)を受けるのが、美少年の条件でもあったようです
狸親父も長く井伊直政を愛していたそうですし、いつまでも相手をさせたかったから元服を遅くさせたとの説もあるくらい
親愛なる三成さんの容貌もだいたいわかって来て、不細工じゃなかったのが嬉しい
この頃の寺と言うのは女色を禁じられてましたが、男色は禁じられてなかったので武家より激しかったようです
検索した時くらいにしか読まない2chには中々目にできないような歴史の裏と言うものを知っている人が多いようで、ここでも面白いものが色々発見できます
秀吉の小姓になる前は寺の小姓をやっていた三成さん
サイトによっては「家が貧乏だったから口減らしで寺に預けられていた」と言うのもあるし、わたしが買った本の中では「頭が良いからその才能を伸ばそうと、寺に預けられていた」(寺では様々な学問を学ばされるようです)と言うのもあるし
と言うことは、男色のメッカ(聖地?)である寺に居たのだから、当然相手はさせられていたのだろうか・・と思い、じゃぁ、三成さんの相手をした小姓とかも居るのかしらと検索してみましたが、見付けられずに他の事実が判明
やっぱり三成さんも寺小姓時代、男色の相手をしていたようです
しかも、秀吉が三成さんを見初めた時の感想のようなものもあって、「美少年で頭が良い三成を一目見て気に入り、召抱えた」そうです
戦国時代で男色に手を伸ばさなかったのは秀吉くらいなものだった。とWikiにも色んなサイトにも書かれてますが、それは当時『男色は武士としての嗜みであり女色より高尚な行為だった』とあり、秀吉は男色のもできない愚か者と、徳川幕府が秀吉を蔑んだ書き方を好んだそうです
つまり、秀吉も一人前に男色に手を出しており、その相手が三成さんだったそうです
(そこでは「だったのではないか」と言う仮説風にされてましたが)
と言うことは、男には困らない(ヘンな表現だが)寺でも男色の相手を務め、秀吉の相手もしてたと言うのだから、やっぱり三成さんは男前だったんだわ〜!
と、三成さんが美男子だった確たる証拠を掴み、かなり嬉しいわたしです
いえ、男色がどうのとではなく、男色の相手ができるのは数居る男の中でもやはり、選りすぐりの美少年だけだと思っただけのことでございます
死ぬまで秀吉の寵愛を受けた三成さん
(肉体関係の有無はともかくとして)
西洋風の男前だったからか、信長にも気に入られていたと言うのもあながち嘘とも思えなくなって来た
信長が西洋かぶれだったから、三成さんはストライクゾーンど真ん中だったんだろうなぁ・・と思った
そんでもって、絶対食われてるとも思った
やおい的な意見ではなくて、男に食われるのが美少年の条件のような時代だったから、三成さんって相当の男前だったんだわーと、嬉しくなっただけです
その上中年期過ぎても童顔だったらしいし
三成さんの隠れた事実の端っこを掴んだのと同時に、面白い検証も見付けた
子種を残すのは必須だったこの時代に、独身、あるいは子供が極端に少ない武将の何れもが『男色家』だったそうだ
昨日読んだところでは、鬼柴田こと柴田勝家は信長から「衆道も、たいがいにしとけ」と言う内容の手紙をよこされたらしい
信長に言われたら、お仕舞のような気がした(っぷ
後家(結婚が遅い)で、その上子供も居ないし
柴田
直江兼続も結婚が遅かった
と言うか、景勝の命令で婿養子に行ったのが直江家
夫婦仲は良かったのに、子供が一人だけ
奥さんの体の都合(例えば子供が生めない体になったとか)だったのかも知れないけど、側室も居ない武将は多かれ少なかれ男色家なのだそうだ
そもそも兼続は、直江家の断絶を惜しんだ景勝の命令で知りもしない女性と結婚したのだし、奥さんとの間に愛情があったとしても肉体的な繋がりは薄いんじゃないかと思った
その兼続だが、幼少の頃より優れた容姿の持ち主だったのだから、謙信の寵愛(肉体的愛情)を受けただとか書かれていたが、謙信そのもの衆道は、周りがうるさいからとりあえずやってただけのことのようです
特に男が好きってわけじゃなさそうです
しかしまぁ、場所によっては『美少年バカ』とまで書かれてるし、どっちが正しいのかちょっとわかんないです
で、その謙信に寵愛(特に可愛がられたいた)のが北条氏秀(上杉景虎)と景勝で、この二人とどんな関係があったのかは知りませんが、とりあえず兼続が寵愛を受けたと言う記述はありませんでした
じゃぁ、兼続は景勝に寵愛されていたのかと言うと、景勝には景勝でお気に入りの小姓(男色の相手)が居たそうで、兼続は相手にされてなかったそうです
なんだか、直江家の養子に進めたのも、厄介払いされたんじゃないかって気がしなくもないけど、景勝に盲目的な兼続はきっと、「直江を守れるのはお前だけだ。信用できるからこそ、お前を婿にやるのだ」とか言われて、ころっと騙されたんじゃないかと勝手に想像してしまって、なんか笑ってしまう
いくら主君の命令でも、縁談じゃなく強引なこの話を受けるだなんて、よぽど景勝が好きだったのねー
その後、直江家を守ることより上杉の家を守ることに一生懸命だし
なんだか、報われない愛よねぇ・・(しみじみ
謙信にも景勝にも相手にされてなかった兼続
まぁ、全く相手にされなかったわけでもなく、可能性としては『景勝&兼続』のようですが、信憑性には欠けるようです
なんか、気の毒になって来た・・・・・・・・・・・・・・・
その景勝も奥さん一人に側室一人、子供も一人
男色家だったそうです(汗
西軍敗北の原因を作った小早川秀秋は、伊達政宗の側近・小十郎の息子のケツを追い駆け回してたとか、ガラシャの旦那さんも衆道やってたとかなんかもう、笑ってしまって仕方がない
秀秋は関ヶ原当時19歳だったのに、それでも男のケツ追い駆け回せるだけの元気があったんだなーとしみじみ
で、『二代重長譜』を検索したら小十郎が出て来て、「男からも惚れられるほど美男子だった」とあり、何だよ、戦国時代って男前ばっかりかよとやや、うんざり
しかも秀秋が男色家だったことも判明
秀秋ー!
あたしゃ、悲しいよ・・(Byおね)
で、政宗と二代目小十郎は衆道の間柄
(『小十郎』は代々受け継がれた通称で、政宗の相手は片腕で有名な小十郎ではなく、その息子のこと)
ぐっじょぶ
とりあえずわかった有名武将では、どこにでも書かれてるものばっかりで恐縮だけど
武田信玄―春日虎綱(高坂昌信)-信玄の虎綱宛のラブレターが残ってるのは有名な話
織田信長―前田利家-『亜相公御夜話』に残されている
伊達政宗―片倉重長(二代目小十郎)-重長が浮気したと勘違いして摂関し、それを謝罪する手紙が残っているらしい
徳川家康―井伊直政-直政に未練があったので、元服を遅らせたらしい
これは確たる証拠があるようで、揺ぎない事実
豊臣秀吉―石田三成(信長にも掘られてた可能性あり?)
上杉謙信or景勝―直江兼続(どっちに掘られてたのか定かではない)
「かも知れない」程度の話ですが、無きにしも非ずな感覚
ぶっちゃけ男色には興味ないし、覗いてみたいとも思わないので、Wikiにも書かれてるカップルしか書きません
探せば他にも色々出て来ましたけどね
阿国さんの愛人で有名な名古屋山三郎と蒲生なんたら(名前忘れた・・)とか
当たり前な行為だったけど、今となっては隠れた文化になり、やおい族のエサにしかならない衆道ですが、この当時は命を投げ打ってでも自分を守ってくれる人間の存在が必要だったので、体を繋げることで絆を深めたのでしょう
でもまぁ、信長(当時の男前の代表格)ならともかく、猿顔の秀吉に気持ち良いことされたってあんまり燃えないんじゃないかと思うのはあたしだけかも知んないけど、それでも気持ちよかったのね、三成さん・・
ここまでで大体見付かった戦国時代の男前
春日虎綱(高坂昌信)-お屋形様のお墨付きじゃー!
織田信長-余は女ではないぞよー!
前田利家-マッチョも範囲内!(By信長)
長宗我部元親-『姫若子』=『美少年』かどうかは、わからんきにのー!でも一応じゃー!
浅井長政-藤の花もぞっこんじゃー!
北条氏秀(上杉景虎)-毘沙門天のお墨付きじゃー!
石田三成-魔王&太閤&観音寺のお墨付きじゃー!
直江兼続-そう書いてるサイトが多すぎじゃー!
井伊直政-狸もぞっこんじゃー!
片倉重長-独眼竜のお手付きじゃー!
2chに書かれてた男前
明智光秀-さすがガラシャのおとん
宇喜多親子-意外だー
大野治長-誰
木村重成-目から鱗
片倉景長-初代小十郎?
松永久秀-名器で爆死
また見付かったら追加します
PR
- ABOUT
画像は外部入力のため、サーバー落ちなどで所々抜けている部分もありますが、ご了承ください。
- 最新記事
(08/02)
(12/11)
(12/11)
(12/11)
(12/08)
- カテゴリー
- 解析
- ありがとうございます
- 御用のある方は、こちらへどうぞ
コピペでお願いします
mail to:
haruhi121@yahoo.co.jp
haruhi121@yahoo.co.jp
メールタイトルにブログタイトルを付けていただけると、見付けやすいです