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All that be for Haruhi. @千極一夜 |
- The blog site of only an Sengoku Musou2 (Samurai Warriors 2). By Haruhi -
戦国時代最強の男前は、誰なんでしょう
今と昔じゃ人の顔の作りも違うので、今の感覚の『男前』が、昔の男前と通じるかと言えば、やっぱり美的感覚が微妙にズレでるので、昔は男前でも今はそうじゃないのかもしれない
『ナオの殿』こと上杉 景勝の義兄弟
一生独身を貫いたが、独身だったのは美少年が好きだったからと言う、新たな真実(つか、昔から有名だった話に目を逸らしてただけ)にガクゼンとするも、その上杉 謙信(長尾 景虎)が寵愛したと言う薄幸の美少年・上杉 景勝(北条)
敬愛なる石田 三成関連本を探していたら、「三国一の美将と言われた上杉 景虎」なる文章を発見し、にわか興味が沸いたが、扱ってるサイトの2〜3を回って満足
列伝を持たない人間には、興味なし
しかし、美少年好き変態謙信に一目惚れされ気に入られ、初名の『景虎』を与えられるとは
上杉の人質に行かされる前はこれも美少年大好き変態信玄さんとこに人質にやられ、こちらでも気に入られ実質上次男扱いされたこの美少年
いやはや、面白おかしく解説したサイト様で「くっくっく・・・」と笑いながら彼の生涯を読んでおりました
味方が誰もいなくなっちゃった状態で、最期は自害に及んだ上杉 景虎こと北条 氏秀
武田・上杉の人質時代、彼は両名から兵法やらなんやら学ばなかったんだろうかね
特に信玄は人心掌握に長けていたのに、もったいない
一体何してたんだろうか
・・・ナニされてたんだろうか(汗
薄幸の美少年の義弟・ナオの殿こと上杉 景勝
この方も男前だったそうだとかなんだとか、そんなことをどこかで読んだ
如何せん美少年大好き変態おじさん謙信のお気に入りでもあったのだから、不細工なはずはない
9歳の時にに父を亡くし、そのまま謙信に引き取られる
11歳で初陣
常に先陣で采配を振るっていた謙信の戦なのだから、景勝もそこそこ激戦区に居たのではなかろうか
まぁ、足手纏いな子供を最前線に行かせることはなかっただろうけど
直江 兼続が生涯血肉を削って(正に人生を捧げたと言っても過言ではない)支えた人なので、人柄じゃなくどんな容姿だったのか気になる
ナオこと直江 兼続
この人も、男前だったらしい
その上、背が高い!
景勝に従って幼くして春日山城に入城
そのまま謙信のお気に入りに
美少年大好き変態に愛されたのだから、子供時代も相当愛らしかったのだろう
衆道に興味のなかった秀吉に寵愛されたと言う大谷や殿が『寵愛されていた』と書かれていると、ほのぼの系に感じるが、美少年大好き変態(しつこい)謙信に愛されたとなると、ここでは書けないような激しい内容だったんだろうと頭がモヤモヤする
あぁ・・・
戦国無双2でナオをプレイしてると、どうしてもケツに目が行って困ってるのに、ますます目が放せない状態になっちゃったよ・・
ところで、同じく上杉の人質時代を過ごしていた真田 信繁(幸村)は、ギリギリセーフだったんだろうか
信繁が11歳の時に謙信が死去してるので、関わったのは景勝の方だろうか
同じく美少年大好き変態信玄に寵愛された昌幸を父に持つのだから、きっと信繁も男前だったんじゃなかろうかと、勝手に妄想
三光神社にある銅像では、がっしりした体格のおじさんだったけど、実際は優男だったとの説もある真田 信繁
若い頃にもっと活躍して欲しかった・・
男には興味なかった家康に唯一愛されていた(この場合は、寵愛どころではなく正に愛されていた)激情の美男・井伊 直政
男前で、体がでかい
これだけだったら興味も沸くが、なんせこの方、わたしが敬愛する石田 三成の佐和山をめちゃくちゃにしてくれた人なので、やっぱり憎らしい気持ちの方が先に来ちゃうんだよねぇ
あぁ、そうそう、特に有名な春日 虎綱(高坂 昌信)も忘れちゃいけないのか
美少年独特の、異例の出世の先駆け的存在
暇があったら『美少年無双』とかどうでも良い企画やってみたいけど、多分構想するだけで終わりそうだよ
いつもこんなだし(笑
近江の雄・浅井 長政も男前だったと言う話しだし、織田 信長も若い頃は女に見紛うほどの美貌を持っていたとか
そうなると、戦国時代でも結構男前が多かったんだな〜と
で、気になるのが殿こと石田 三成
この人の人物像は検索すれば結構引っ掛かるけど、どんな容姿だったのかってとこは、どうすれば見付けられるのかわからない
だいたいは男前とはかけ離れたものばかりなので、「まぁ、そんなもんだろうなぁ」とは思いつつも、やはり戦国無双2の殿が忘れられずそこそこ男前であって欲しいと勝手に思うわたしは、石田 三成関連本を4冊購入
ただいま搬送中
今と昔じゃ人の顔の作りも違うので、今の感覚の『男前』が、昔の男前と通じるかと言えば、やっぱり美的感覚が微妙にズレでるので、昔は男前でも今はそうじゃないのかもしれない
『ナオの殿』こと上杉 景勝の義兄弟
一生独身を貫いたが、独身だったのは美少年が好きだったからと言う、新たな真実(つか、昔から有名だった話に目を逸らしてただけ)にガクゼンとするも、その上杉 謙信(長尾 景虎)が寵愛したと言う薄幸の美少年・上杉 景勝(北条)
敬愛なる石田 三成関連本を探していたら、「三国一の美将と言われた上杉 景虎」なる文章を発見し、にわか興味が沸いたが、扱ってるサイトの2〜3を回って満足
列伝を持たない人間には、興味なし
しかし、美少年好き変態謙信に一目惚れされ気に入られ、初名の『景虎』を与えられるとは
上杉の人質に行かされる前はこれも美少年大好き変態信玄さんとこに人質にやられ、こちらでも気に入られ実質上次男扱いされたこの美少年
いやはや、面白おかしく解説したサイト様で「くっくっく・・・」と笑いながら彼の生涯を読んでおりました
味方が誰もいなくなっちゃった状態で、最期は自害に及んだ上杉 景虎こと北条 氏秀
武田・上杉の人質時代、彼は両名から兵法やらなんやら学ばなかったんだろうかね
特に信玄は人心掌握に長けていたのに、もったいない
一体何してたんだろうか
・・・ナニされてたんだろうか(汗
薄幸の美少年の義弟・ナオの殿こと上杉 景勝
この方も男前だったそうだとかなんだとか、そんなことをどこかで読んだ
如何せん美少年大好き変態おじさん謙信のお気に入りでもあったのだから、不細工なはずはない
9歳の時にに父を亡くし、そのまま謙信に引き取られる
11歳で初陣
常に先陣で采配を振るっていた謙信の戦なのだから、景勝もそこそこ激戦区に居たのではなかろうか
まぁ、足手纏いな子供を最前線に行かせることはなかっただろうけど
直江 兼続が生涯血肉を削って(正に人生を捧げたと言っても過言ではない)支えた人なので、人柄じゃなくどんな容姿だったのか気になる
ナオこと直江 兼続
この人も、男前だったらしい
その上、背が高い!
景勝に従って幼くして春日山城に入城
そのまま謙信のお気に入りに
美少年大好き変態に愛されたのだから、子供時代も相当愛らしかったのだろう
衆道に興味のなかった秀吉に寵愛されたと言う大谷や殿が『寵愛されていた』と書かれていると、ほのぼの系に感じるが、美少年大好き変態(しつこい)謙信に愛されたとなると、ここでは書けないような激しい内容だったんだろうと頭がモヤモヤする
あぁ・・・
戦国無双2でナオをプレイしてると、どうしてもケツに目が行って困ってるのに、ますます目が放せない状態になっちゃったよ・・
ところで、同じく上杉の人質時代を過ごしていた真田 信繁(幸村)は、ギリギリセーフだったんだろうか
信繁が11歳の時に謙信が死去してるので、関わったのは景勝の方だろうか
同じく美少年大好き変態信玄に寵愛された昌幸を父に持つのだから、きっと信繁も男前だったんじゃなかろうかと、勝手に妄想
三光神社にある銅像では、がっしりした体格のおじさんだったけど、実際は優男だったとの説もある真田 信繁
若い頃にもっと活躍して欲しかった・・
男には興味なかった家康に唯一愛されていた(この場合は、寵愛どころではなく正に愛されていた)激情の美男・井伊 直政
男前で、体がでかい
これだけだったら興味も沸くが、なんせこの方、わたしが敬愛する石田 三成の佐和山をめちゃくちゃにしてくれた人なので、やっぱり憎らしい気持ちの方が先に来ちゃうんだよねぇ
あぁ、そうそう、特に有名な春日 虎綱(高坂 昌信)も忘れちゃいけないのか
美少年独特の、異例の出世の先駆け的存在
暇があったら『美少年無双』とかどうでも良い企画やってみたいけど、多分構想するだけで終わりそうだよ
いつもこんなだし(笑
近江の雄・浅井 長政も男前だったと言う話しだし、織田 信長も若い頃は女に見紛うほどの美貌を持っていたとか
そうなると、戦国時代でも結構男前が多かったんだな〜と
で、気になるのが殿こと石田 三成
この人の人物像は検索すれば結構引っ掛かるけど、どんな容姿だったのかってとこは、どうすれば見付けられるのかわからない
だいたいは男前とはかけ離れたものばかりなので、「まぁ、そんなもんだろうなぁ」とは思いつつも、やはり戦国無双2の殿が忘れられずそこそこ男前であって欲しいと勝手に思うわたしは、石田 三成関連本を4冊購入
ただいま搬送中
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三玄院
京都の北区にある大徳寺に収められた寺
三成さんが眠っているとされている場所
京阪から特急で終点・出町柳に降り、そこからバスで大徳寺前に行く
予定だったけど、出町柳駅前を流れる賀茂川に目を奪われ、ついつい涼んでしまった

水は冷たく、やや濁っている
が、大阪城公園の噴水の水に比べたら綺麗(当たり前か)
魚は見なかったけど、川の流れは激しく油断したら流されそうな恐怖に駆られる都会人一行(ひとりじゃ行きませんよ)
周りの地元民は迷惑だったろう(汗
しばらく賀茂川で遊び、小腹が空いたので付近の喫茶店で腹ごしらえ
お茶大好き人間のわたしは、抹茶&ほうじ茶のアイスパフェをオーダー
感動するくらいおいしかった
予定が大狂いするくらいのんびりしてしまったため、大徳寺に着いた時は夕方近かった
観光客も少なく、閑散とした雰囲気
ここに、三成さんが居るのか・・と、感動の対面を果たそうと心ワクワク

大徳寺 三玄院
お墓は見れないと予め知っていたけど、まさか拝観謝絶(中にも入れない)とは知らなかった・・
しばらく呆然とするかのように門前で佇んでいたけど、ここに三成さんの気配はなかった
念のため、三玄院の周りをぐるっと回ってみたけど、やっぱり中は空っぽだった
周囲は距離があっても、中は色んな建物が犇いているからか、観光客が殺到したらとんでもないことになりそうなくらい狭い
だからと言うのではないだろうけど、この拝観謝絶の裏に何があるのだろうかと勘繰ってしまった
ここには、三成さんは居ない
気配もない
何も感じない
安居神社に行った時も、「ここには幸村さんは居ない」と感じた
それでも夜になると、それらしき人物の気配は感じた
だけど、ここには何も感じない
感じるものがなかった
やはり六条河原じゃないとだめなんだろうか
驚いたことに、三玄院の隣の高桐院に阿国さんのお墓があった
墓場は工事中で見れなかったけど、なんとなくほんわかした気分になれた
戦国無双2の、のんびりした口調が頭に残っているからだろうか
同じ高桐院には細川ガラシャの墓もある
三成さんの計略を拒み自害した人が、三成さんのお墓のお隣さんだなんて、なんて言う因縁だろう
こんなところに墓を立てなくても、細川家なら新たに寺を建立することだってできただろう
なのに、どうして
ガラシャを自害に追い込んだのは、三成さんじゃない?
そんな、根も葉もない言葉が浮かんだ

三成さんの子孫の人だろうか、同じ石田姓の名前が裏に刻まれていた
こんな立派なご先祖様を持って、羨ましい

手の届く範囲で撮影してみた
お寺と言うより、古い民家といった感じが否めない
やっぱり、拝観したかったです
お金取られても良いから

一時は小雨が舞いしきったけど、それも直ぐ止み、綺麗な緑に染まっていた
たかが、ゲームに出てくるキャラクターの一人
所詮、大昔に死んだ人
簡単なことなのに、どうしてこんなに気になるのだろう
そう思った
三成さんは、生き急ぎすぎた
まだ花の咲く真っ盛りに、命を散らせた
自分のためではなく、大事な、誰かのために
戦国時代は、そう言う時代
蘭丸も、父親代わりになってくれた大好きな信長と、命運を共にした
たった18歳で
もしも生きて居たなら、天下を取ったのは秀吉じゃなく蘭丸だったかも知れない
たった一つの、掛け替えのないもの
それと引き換えにしても惜しくないほど、戦国時代の武将達は、誰かに愛されていた
誰かに支えられていた
今のこの時代には、考えられない、理解できない、真似できない、そんな人々の想いがこの時代にはあったんだ
三成さんは、自分のためじゃなく、大好きだった秀吉のために
大好きなおねさんのために
家康に力を削がれても、それでも歯向かった
戦った
立ち向かった
大事な何かを守るために
戦国無双2のムービーに、こんなセリフがある
「もしも俺が死んだら、俺との友情に生きると言ったお前はどうなるのだろうと思ってな」
そう言ったのは、殿である石田三成
これは今の時代の人間が書いた台本だから、三成さんのセリフも死を覚悟している人間のものになっている
史実の三成さんは、最後まで諦めなかった
捕縛され、処刑されるまで生き恥を曝され、到底人が耐えられないような辱めを受け、それでも諦めなかった
最後の最後まで、家康に一矢報いることを諦めなかった
その遺志は真田信繁へと受け継がれ、戦国最大のヒーロー・真田幸村が誕生した
戦国時代の戦は、常に私欲が絡んでいた
そうじゃなかったのは、三成さんくらいなものだと思う
謙信の時代かどうかわからないが、上杉の時代には人身売買で利益を得ていた事実があるそうだ
それを知ったからか、謙信もさほど美しい(見た目とかではなく)人間ではなかったのだろうかと思った
贔屓目もあると思う
だけど、三成さんの生き方は美しいと思う
関ヶ原は、三成さんと狸との戦いではなく、おねさんと淀君との戦いでもあったそうだ
正室と側室
戦国随一の賢婦とも謳われるおねさんに対し、亡国の姫君・淀はコンプレックスを持っていたのだろうか
近江の英雄とも言われた長政を失い、義理の父である勝家も失った茶々
少女にはこの時代がどう写ったのかわからない
彼女なりに必死だった部分もあると思う
だから、『1番にはなれない』歯がゆさがあったのだろうか
関ヶ原で家康に汲みした淀は、その14年後、味方したはずの家康によって滅ぼされた
『おね・三成』対『淀・家康』が、もう一つの関ヶ原だそうだ
最期まで秀吉のため、おねのため
それしか考えていなかった三成さん(と、勝手に思ってます)
時代が時代ならきっと、処刑されずに重用されていたと思う
生まれたのがもっと先だったら
場所が違っていたら
きっと、あんな死に方はしなかったはずだと思うだけで、泣けて来る
誰も、三成さんの助命懇願をしなかったのだろうか・・・・・・・・・・
直江兼続は罪を咎められなかった
誰が彼の助命を懇願したのだろうか
どうして兼続は三成さんを助けようとしなかったのだろうか
彼は、景勝を守ることに必死だったから
だから、三成さんどころの話ではなかったのだろうか
助けられた身だから、三成さんの助命などおこがましかったのだろうか
大津城の前で生きたまま曝されたと言う三成さん
どれほど悔しかったか
どれほど恥しかった
その怨念が今も生きているのではないかと思っていた
だけど、三玄院は静かで、穏やかで、空気の流れしか感じなかった
三成さんの胸に咲く花火
刹那に儚く、だけど誰よりも輝いて、今も誰かの胸で咲いている
この時代は、切ないです
命の大切さ、生まれることの大事さを知らずに育ち、知らずに死のうとする人が多い
殺してしまう人が多い
いつから、こんな時代になってしまったんだろう
戦国時代は『主君のため』に生きた人が多かった
『義』に生きた人が多かった
決して、直江兼続だけの話じゃない
盟友である朝倉家のため、義理の兄に刀を抜いた浅井長政
18の時に人質となってしまったが、それでも懇意があったのか豊臣のために再び死地に立つ真田信繁
そして、豊臣の世のため挙兵を決した石田三成
戦国最大のヒーローは、この3人だと思う

この壁の向こうに墓や供養塔らしきものが見える
ここに、三成さんは居ないのだろうか
ただ、この記事を書いてる最中に何度も気分が悪くなったので、誰も居ないと言うわけではないだろうけど、それでも三成さんの気配は感じない
しつこいほど、感じていたいだけなのかも知れない
三成さんは、実は生きてどこかで暮らしていたことを
兼続は赦した家康が、三成さんだけは赦さなかった理由
それは、家康が唯一恐れた男が三成さんだからに相違ない
どんな手を使っても、どんな卑怯なことをしても、決して屈しなかった三成さん
絶対に、自分には下らない
ならば、殺すしかない
三成さんが主君と崇めたのは、秀吉だけなのだから
だから、家康は
最近、そう思い始めました
京都の北区にある大徳寺に収められた寺
三成さんが眠っているとされている場所
京阪から特急で終点・出町柳に降り、そこからバスで大徳寺前に行く
予定だったけど、出町柳駅前を流れる賀茂川に目を奪われ、ついつい涼んでしまった

水は冷たく、やや濁っている
が、大阪城公園の噴水の水に比べたら綺麗(当たり前か)
魚は見なかったけど、川の流れは激しく油断したら流されそうな恐怖に駆られる都会人一行(ひとりじゃ行きませんよ)
周りの地元民は迷惑だったろう(汗
しばらく賀茂川で遊び、小腹が空いたので付近の喫茶店で腹ごしらえ
お茶大好き人間のわたしは、抹茶&ほうじ茶のアイスパフェをオーダー
感動するくらいおいしかった
予定が大狂いするくらいのんびりしてしまったため、大徳寺に着いた時は夕方近かった
観光客も少なく、閑散とした雰囲気
ここに、三成さんが居るのか・・と、感動の対面を果たそうと心ワクワク

大徳寺 三玄院
お墓は見れないと予め知っていたけど、まさか拝観謝絶(中にも入れない)とは知らなかった・・
しばらく呆然とするかのように門前で佇んでいたけど、ここに三成さんの気配はなかった
念のため、三玄院の周りをぐるっと回ってみたけど、やっぱり中は空っぽだった
周囲は距離があっても、中は色んな建物が犇いているからか、観光客が殺到したらとんでもないことになりそうなくらい狭い
だからと言うのではないだろうけど、この拝観謝絶の裏に何があるのだろうかと勘繰ってしまった
ここには、三成さんは居ない
気配もない
何も感じない
安居神社に行った時も、「ここには幸村さんは居ない」と感じた
それでも夜になると、それらしき人物の気配は感じた
だけど、ここには何も感じない
感じるものがなかった
やはり六条河原じゃないとだめなんだろうか
驚いたことに、三玄院の隣の高桐院に阿国さんのお墓があった
墓場は工事中で見れなかったけど、なんとなくほんわかした気分になれた
戦国無双2の、のんびりした口調が頭に残っているからだろうか
同じ高桐院には細川ガラシャの墓もある
三成さんの計略を拒み自害した人が、三成さんのお墓のお隣さんだなんて、なんて言う因縁だろう
こんなところに墓を立てなくても、細川家なら新たに寺を建立することだってできただろう
なのに、どうして
ガラシャを自害に追い込んだのは、三成さんじゃない?
そんな、根も葉もない言葉が浮かんだ

三成さんの子孫の人だろうか、同じ石田姓の名前が裏に刻まれていた
こんな立派なご先祖様を持って、羨ましい

手の届く範囲で撮影してみた
お寺と言うより、古い民家といった感じが否めない
やっぱり、拝観したかったです
お金取られても良いから

一時は小雨が舞いしきったけど、それも直ぐ止み、綺麗な緑に染まっていた
たかが、ゲームに出てくるキャラクターの一人
所詮、大昔に死んだ人
簡単なことなのに、どうしてこんなに気になるのだろう
そう思った
三成さんは、生き急ぎすぎた
まだ花の咲く真っ盛りに、命を散らせた
自分のためではなく、大事な、誰かのために
戦国時代は、そう言う時代
蘭丸も、父親代わりになってくれた大好きな信長と、命運を共にした
たった18歳で
もしも生きて居たなら、天下を取ったのは秀吉じゃなく蘭丸だったかも知れない
たった一つの、掛け替えのないもの
それと引き換えにしても惜しくないほど、戦国時代の武将達は、誰かに愛されていた
誰かに支えられていた
今のこの時代には、考えられない、理解できない、真似できない、そんな人々の想いがこの時代にはあったんだ
三成さんは、自分のためじゃなく、大好きだった秀吉のために
大好きなおねさんのために
家康に力を削がれても、それでも歯向かった
戦った
立ち向かった
大事な何かを守るために
戦国無双2のムービーに、こんなセリフがある
「もしも俺が死んだら、俺との友情に生きると言ったお前はどうなるのだろうと思ってな」
そう言ったのは、殿である石田三成
これは今の時代の人間が書いた台本だから、三成さんのセリフも死を覚悟している人間のものになっている
史実の三成さんは、最後まで諦めなかった
捕縛され、処刑されるまで生き恥を曝され、到底人が耐えられないような辱めを受け、それでも諦めなかった
最後の最後まで、家康に一矢報いることを諦めなかった
その遺志は真田信繁へと受け継がれ、戦国最大のヒーロー・真田幸村が誕生した
戦国時代の戦は、常に私欲が絡んでいた
そうじゃなかったのは、三成さんくらいなものだと思う
謙信の時代かどうかわからないが、上杉の時代には人身売買で利益を得ていた事実があるそうだ
それを知ったからか、謙信もさほど美しい(見た目とかではなく)人間ではなかったのだろうかと思った
贔屓目もあると思う
だけど、三成さんの生き方は美しいと思う
関ヶ原は、三成さんと狸との戦いではなく、おねさんと淀君との戦いでもあったそうだ
正室と側室
戦国随一の賢婦とも謳われるおねさんに対し、亡国の姫君・淀はコンプレックスを持っていたのだろうか
近江の英雄とも言われた長政を失い、義理の父である勝家も失った茶々
少女にはこの時代がどう写ったのかわからない
彼女なりに必死だった部分もあると思う
だから、『1番にはなれない』歯がゆさがあったのだろうか
関ヶ原で家康に汲みした淀は、その14年後、味方したはずの家康によって滅ぼされた
『おね・三成』対『淀・家康』が、もう一つの関ヶ原だそうだ
最期まで秀吉のため、おねのため
それしか考えていなかった三成さん(と、勝手に思ってます)
時代が時代ならきっと、処刑されずに重用されていたと思う
生まれたのがもっと先だったら
場所が違っていたら
きっと、あんな死に方はしなかったはずだと思うだけで、泣けて来る
誰も、三成さんの助命懇願をしなかったのだろうか・・・・・・・・・・
直江兼続は罪を咎められなかった
誰が彼の助命を懇願したのだろうか
どうして兼続は三成さんを助けようとしなかったのだろうか
彼は、景勝を守ることに必死だったから
だから、三成さんどころの話ではなかったのだろうか
助けられた身だから、三成さんの助命などおこがましかったのだろうか
大津城の前で生きたまま曝されたと言う三成さん
どれほど悔しかったか
どれほど恥しかった
その怨念が今も生きているのではないかと思っていた
だけど、三玄院は静かで、穏やかで、空気の流れしか感じなかった
三成さんの胸に咲く花火
刹那に儚く、だけど誰よりも輝いて、今も誰かの胸で咲いている
この時代は、切ないです
命の大切さ、生まれることの大事さを知らずに育ち、知らずに死のうとする人が多い
殺してしまう人が多い
いつから、こんな時代になってしまったんだろう
戦国時代は『主君のため』に生きた人が多かった
『義』に生きた人が多かった
決して、直江兼続だけの話じゃない
盟友である朝倉家のため、義理の兄に刀を抜いた浅井長政
18の時に人質となってしまったが、それでも懇意があったのか豊臣のために再び死地に立つ真田信繁
そして、豊臣の世のため挙兵を決した石田三成
戦国最大のヒーローは、この3人だと思う

この壁の向こうに墓や供養塔らしきものが見える
ここに、三成さんは居ないのだろうか
ただ、この記事を書いてる最中に何度も気分が悪くなったので、誰も居ないと言うわけではないだろうけど、それでも三成さんの気配は感じない
しつこいほど、感じていたいだけなのかも知れない
三成さんは、実は生きてどこかで暮らしていたことを
兼続は赦した家康が、三成さんだけは赦さなかった理由
それは、家康が唯一恐れた男が三成さんだからに相違ない
どんな手を使っても、どんな卑怯なことをしても、決して屈しなかった三成さん
絶対に、自分には下らない
ならば、殺すしかない
三成さんが主君と崇めたのは、秀吉だけなのだから
だから、家康は
最近、そう思い始めました
少し鬱陶しい天気でした
今にも雨が降りそうな雰囲気で、一旦は行くのを断念したのですが、やっぱり気になるので行って来ました
幸村の銅像があると言う三光神社に
湿気の多い日で、しかも神社の多くが草木の茂る場所にあり、ここも部に漏れず木が多くて、蚊が飛んでました
かゆかったー

超近所だった三光神社
近所のお子さんが写り込んでしまったので、モザイク掛けたけど問題ないだろうか・・(心配
参拝客は居ないといっても過言ではなく、境内におばあちゃんが居ました
知らない人だったんですけど、わたしが境内に入り、幸村像を探していると、向うから「こんにちは」と声を掛けられました
なんとなく、古きよき時代にタイムスリップした感じです
境内は綺麗なところでした
狭い敷地なので欝蒼とした感じは否めませんが、小奇麗な神社です
夏祭りの日程も知ることができたので(←これが知りたかった)、予定に組み込みました

信繁公銅像
Wikiにあった画像と一緒なので、感動した
プレートがやっぱり『幸村』になってました
大阪城天守閣には、『真田信繁を幸村と記したものは(大阪城には)ない』とはっきり名言されていたのだけど、地域住民にとって彼はやはり『幸村』のようです
隣の木が大きく育っていて、枝がかなり伸びてました

枝が邪魔なので、斜めから撮ってみました
銅像の隣にあるのが、『真田抜け穴』です

鉄柵の中央に、真田家家紋の六文銭が

ここ以外にも、真田の抜け穴は存在するようです
ここから大阪城のどこまで繋がってるのかわかりませんが、大坂の陣、太平洋戦争を経験し、穴はきっと途中で塞がってるんじゃないかと思いました
この神社の御祭神に天照大神、月読尊など、名立たる名前が連なってました
それまで、真田幸村は実在した人物だったなど思いもせず、ゲームに出て来てようやく戦国武将であったことを知り、そして、戦国無双2の購入から1ヵ月半ちょっとの現在、史跡を訪れるまで入れ込むとは思っていませんでした
もちろん、ゲームの真田幸村がどうのと言うのではなく、どんな生き様だったのか、どんな風に時代を駆け抜けたのか、それが知りたいと思うようになったのは、やはり作った会社がコーエーだったからで、これが他のメーカー、増してやカプコンのあの奇天烈なゲームが一人の人間をここまで動かすなんてことは、絶対になかったと断言できる
デジタルの集合体でしかないDVDが、まさかこんなにも影響を及ぼすとは想像もしてなかった
史実の幸村が戦死したのは50手前なので、普通におっちゃん
おっちゃんには興味はないけど、何百年も昔の人間に興味が持てたのは、『よいしょ』するつもりじゃないけど、戦国無双2のお陰だと思う
そうじゃなかったら、自転車で5分と掛からない場所に幸村像があるなんて、絶対気付かなかったし、興味も沸かなかったと思う
それでも、自分の住んでいる場所が幸村ゆかりの地であることに、誇りが持てるようになりました
日の本一の兵(つわもの)と称された幸村(信繁)
彼は大阪の人間ではないけれど、大阪の誉であることに変わりはありません
今度は幸村終焉の地である安居神社に行ってみたいと思ってます
今にも雨が降りそうな雰囲気で、一旦は行くのを断念したのですが、やっぱり気になるので行って来ました
幸村の銅像があると言う三光神社に
湿気の多い日で、しかも神社の多くが草木の茂る場所にあり、ここも部に漏れず木が多くて、蚊が飛んでました
かゆかったー

超近所だった三光神社
近所のお子さんが写り込んでしまったので、モザイク掛けたけど問題ないだろうか・・(心配
参拝客は居ないといっても過言ではなく、境内におばあちゃんが居ました
知らない人だったんですけど、わたしが境内に入り、幸村像を探していると、向うから「こんにちは」と声を掛けられました
なんとなく、古きよき時代にタイムスリップした感じです
境内は綺麗なところでした
狭い敷地なので欝蒼とした感じは否めませんが、小奇麗な神社です
夏祭りの日程も知ることができたので(←これが知りたかった)、予定に組み込みました

信繁公銅像
Wikiにあった画像と一緒なので、感動した
プレートがやっぱり『幸村』になってました
大阪城天守閣には、『真田信繁を幸村と記したものは(大阪城には)ない』とはっきり名言されていたのだけど、地域住民にとって彼はやはり『幸村』のようです
隣の木が大きく育っていて、枝がかなり伸びてました

枝が邪魔なので、斜めから撮ってみました
銅像の隣にあるのが、『真田抜け穴』です

鉄柵の中央に、真田家家紋の六文銭が

ここ以外にも、真田の抜け穴は存在するようです
ここから大阪城のどこまで繋がってるのかわかりませんが、大坂の陣、太平洋戦争を経験し、穴はきっと途中で塞がってるんじゃないかと思いました
この神社の御祭神に天照大神、月読尊など、名立たる名前が連なってました
それまで、真田幸村は実在した人物だったなど思いもせず、ゲームに出て来てようやく戦国武将であったことを知り、そして、戦国無双2の購入から1ヵ月半ちょっとの現在、史跡を訪れるまで入れ込むとは思っていませんでした
もちろん、ゲームの真田幸村がどうのと言うのではなく、どんな生き様だったのか、どんな風に時代を駆け抜けたのか、それが知りたいと思うようになったのは、やはり作った会社がコーエーだったからで、これが他のメーカー、増してやカプコンのあの奇天烈なゲームが一人の人間をここまで動かすなんてことは、絶対になかったと断言できる
デジタルの集合体でしかないDVDが、まさかこんなにも影響を及ぼすとは想像もしてなかった
史実の幸村が戦死したのは50手前なので、普通におっちゃん
おっちゃんには興味はないけど、何百年も昔の人間に興味が持てたのは、『よいしょ』するつもりじゃないけど、戦国無双2のお陰だと思う
そうじゃなかったら、自転車で5分と掛からない場所に幸村像があるなんて、絶対気付かなかったし、興味も沸かなかったと思う
それでも、自分の住んでいる場所が幸村ゆかりの地であることに、誇りが持てるようになりました
日の本一の兵(つわもの)と称された幸村(信繁)
彼は大阪の人間ではないけれど、大阪の誉であることに変わりはありません
今度は幸村終焉の地である安居神社に行ってみたいと思ってます
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