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All that be for Haruhi. @千極一夜
- The blog site of only an Sengoku Musou2 (Samurai Warriors 2). By Haruhi -
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その後わかった美男子達

陶晴賢(享年34)美童だったらしい
堀秀政(享年37)信長のお気に入り(蘭丸と取って代わられたが・・)
森長可(享年26)絶世の美男子
実年齢

美人薄命ならぬ美男子薄命・・


大谷吉継(ライ病に掛かる前は美男子だったそう)


以前の記事にした美男子(復唱)

春日虎綱(高坂昌信)-美童だったことで有名
織田信長-女顔系美男子
前田利家-体育会系美男子
長宗我部元親-『姫若子』=『美少年』かどうか疑わしいが
浅井長政-関取系美男子
北条氏秀(上杉景虎)-中性的美男子
石田三成-西洋的美男子のため、当時の男前の基準からやや離れていたのが災いして、歴史小説ではろくな書き方をされていない
直江兼続-身長はそれほど高くなかった模様
井伊直政-森長可系美男子
片倉重長-可愛い系美男子

2chに書かれてた男前
明智光秀
宇喜多親子
大野治長
木村重成
松永久秀
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殿(コーエーゲーム『戦国無双2』石田三成)に惚れてから、どれだけの三成さん(史実の石田三成)関連本を買っただろうか
現在配送待ちの本も含めたら10冊は軽く超える
もちろん、これだけの数で自分は歴史に明るいとは全く思っていない
寧ろ謎は深まるばかりな毎日を送っている
歴史は、時の勝者が自分の都合の良いように、事実を改竄して書かれる場合が多い
そのため、信憑性の高い史書がどれなのか、これといって明言できるものも少ないようだ

武田信玄の寵愛を一身に受け、その信頼度も高いことで有名な高坂(香坂)昌信(春日虎綱)が原本を書いたとされる『甲陽軍鑑』も、最近は武田氏に偏りすぎる内容のためその信憑性が問われるようになっているし、『甲陽軍鑑』も本当に高坂昌信が書き記したものを正確に伝えているかどうかわからないし、高坂昌信が『甲陽軍鑑』を手懸けたのかどうかも怪しい雰囲気が流れているようだ

史書は自分の家を誇張して書く場合が多いようで、だけどそれは『日本書紀』の頃から日本では当たり前の風習なのだから、単なる読み物として楽しんだ方が良いのではないかと思う
ただ、その『読み物』としての史書を『史実』として受け止め、それを本にして売る作家や歴史研究家が多すぎて、どれ一つとして正しい歴史を伝えてくれるものがないのも事実ではないだろうか
多数の史書を照らし合わせ、その中で一致する事柄を書き記す人間(作家・歴史研究家)は少なく、手にした本の内容が他の本と食い違っていたりすると本当に腹が立つ

戦国無双2の影響で石田三成のにわかファンになったわたしは、手当たり次第の歴史書を買い集めている
もちろん、史書を手にすることはできない
高いし、売ってないし、内容が難しいから買ったとしても理解して読むことは無理だと思うので
だから、アホな自分にもわかるよう、その歴史書を紐解いた本を選んで買うようにしているのだが、その選んで買った本の内容が史実(事実)と違ってたりするともう、救いようがないくらい落ち込む

買って損したなーと思うのが、読み物としても楽しむことができない『関ヶ原』(司馬遼太郎著)と、『BL新日本史』(堀五朗著)と、『武士道とエロス』(氏家幹人著)の3冊
今、これに新たに加わろうとしている本があるが、まだ半分も読んでいないので読み終えてから評価を出したい

色んな本を読んでみた
知識として吸収することはできないほど、できの悪い頭だが、できの悪い頭なりに思ったことがある
それは、『歴史は繰り返されるって、ホントだなぁー・・』


日本人は神話時代の昔から、兄弟間での争いが耐えない
寧ろ、その兄弟間の争いで今の日本があるくらいだ
わたしが知っている限りでは壬申の乱が、一番古い骨肉の争いだろうか
『やられる前にやれ』が、日本人の魂に根強く蔓延っている防衛本能
その辺りは何となく、理解できる
わたしも、『やられる前にやってやる』主義だから
特に好きな三成さんの時代を扱った本を中心に読んでいると、本当に繰り返される、因果応報が多い

本能寺で謀殺された織田信長
これは因果応報でなくてなんだと言うのだろうか
謀略で死んで行った古の武将達の怨念が、信長を殺したのだろうか
骨すら見付からないのは、葬られる方としては情けない限りだが、織田家の衰退も『まともな後継者が居ないために勝手に滅んだ』結果なのだから、なんとも味気ない幕引きである
信長を引き合いに出すと、何が何だかわからないくらいなので割愛するとして、時代が秀吉を選んだ頃の話をしたい
信長亡き後尾張では、信長の後継者選びが行なわれる
にわかに天下取りに乗り出した秀吉は、謀略で織田家を守ろうとした柴田勝家を死に追いやっている
これは17年後に起きた関ヶ原合戦と同じ内容ではないだろうか
戦の起こり方は違っているが、方や織田を守ろうとした柴田勝家、方や豊臣を守ろうとした三成さん
どちらも結果は『死んでいる』
死に方が違うだけで、結果は同じである
志し果たせず死んでしまうのだから、さぞかし無念であろう
しかも、戦には勝てないよう様々な謀略を張り巡らされていた
勝家も三成さんも、充分納得できる内容の戦ではなかった
勝家の場合は秀吉が根回しをし、味方の数が揃わなかったし、三成さんの場合は数は揃ったけど駒が動いてくれなかったと言う情けなさ
そして、賤ヶ岳では前田利家が恩義のある勝家に味方するどころか豊臣軍に加担し、しかも何もせず撤退している
何もせず撤退
これは関ヶ原における島津然り、毛利然り
島津義弘は九州征伐の敗戦で、秀吉の命令で大阪に軟禁されてしまった
九州に帰りたくても帰れない状態だったらしい
そんな義弘の面倒を見、相談相手となったのが三成さんだと『読本 石田三成』に記されている
しかも三成さんは、義弘が九州に帰れるよう秀吉に働き掛けたのだそうだ
その甲斐あって義弘は、1年の後九州に帰れたのだが、その恩を忘れて義弘は、優勢な徳川軍の味方をしようとしていた
結局徳川軍には受け入れてもらえず西軍に着くが、関ヶ原では不動を貫き通し、西軍が総崩れになったところで敵中突破を敢行して、大事な跡取りである豊久を失っている
しかし前田家も島津家も、結局は倒幕まで生き残っているのだからやはり、地味なりにがんばったのだなーと感じた
時に日和見は家を守るものである

関ヶ原と賤ヶ岳が似てるなーと感じるし、秀吉が傀儡にしようと画策した『信長後継者は三法師』作戦も、その後の大坂の陣に持ち越される
幼い子供を無理矢理後継者にすることで天下取りに名乗りを上げた秀吉は、天下取りを果たした10年後に死亡し、その14年後には家を丸ごと潰されている
自分がやった因果が、子供の秀頼にしっぺ返しな形で戻って来たのだ

最近になって、淀殿の名誉が回復されているらしい
とは言え、やっぱり因果を生んだのは事実で、名誉が回復されたからといって淀殿人気が上がるのかと言えば、難しい話ではなかろうか
三成さんの人気は、正直言って戦国無双2の影響だと思う
将来、戦国無双シリーズに『茶々』が出て来たりしたら、さすがに世間が黙ってないと思う
「いい加減にしとけよ、コーエー」って感じで

話は反れたが、三成さんだけを大悪人に仕立て上げ、自分のしでかしたことを正当化することに成功した家康だが、徳川幕府の終わりをどう思っていたのだろうか

徳川幕府の崩壊は、ペリーの「開国しろー、開国しろー」で開国したのかと思っていた単純なわたし
坂本竜馬や西郷隆盛、その他大勢の英雄達の活躍を学校の授業で習ったのか?おい。と突っ込まれても反論できないくらい、覚えていない
だが、三成さんを知りたいと思って本を読んでいると、倒幕に一端を担っていた意外な人物達が居るのを知った

その前に
『忠臣蔵』は年末になると長時間ドラマとしてテレビで放映される
わたしはあの話が大嫌いなのだ
一人のか弱い老人を、40人からの武士が寄って集って虐殺するのだ
なんて怖いお話!!
だが、その実態を知ってわたしは、吉良上野介には気の毒だが笑ってしまった
吉良上野介こと吉良義央を斬り付けたのは浅野内匠頭こと浅野 長矩
ご先祖様は浅野長政
浅野長政は比較的、三成さんとは仲が良かったようである
が、事情で関ヶ原では西軍に味方できなかったこともあるが、それなりに立派な人だったらしい
なのに、その子孫がバカ殿とは情けない
結局、吉良斬り付けが原因で浅野家はお取り潰しとなる
ご先祖様が命を張って築き上げた家を潰してしまうとは、救いのない話だと思った
そして、斬り付けられた上に寄って集って嬲り殺しに遭った吉良義央の奥さんは、上杉景勝の養子の娘だったか孫だったか、その辺り
歴史って、どこで誰が繋がってるかわからないから、面白いなぁと思った

江戸時代には興味がないので、この辺りの文献をわたしは殆ど持っていない
だが、徳川幕府が終わる頃の話なら聞きかじった程度の内容は知っている
家康の寵愛(情愛?)を一身に受け、過労死&破傷風で死んだ(とされる)直政の死を嘆き、半狂乱になって三成さんの実家を潰したり、石田家代々の墓を潰したり、佐和山城を潰したりとご乱心召されたが、その愛する直政の子孫の井伊家が徳川幕府崩壊・開国の一旦を担っていたらしいと言う話は、非常に面白かった
おまけに、どの本で読んだのか失念してしまったので、勘違いだったら申し訳ないのだが、家康の腹心で『半蔵門』でも有名な服部半蔵の子孫、あるいは一門が徳川幕府崩壊の際、その崩壊の一旦を担っていたらしいと言うのも、笑い転げる話ではなかろうか
甲賀一族が幕府倒壊のため戦ったのは、何と言う皮肉だろうか
おまけに井伊一族が伝統の『赤備え』を捨て、幕府に盾突いたのだから

自分のご先祖様である直政が、その寿命を縮めたとまで言われるほど徳川幕府開幕に尽力し、家康に天下を取らせるため関ヶ原で奮戦し、島津軍の放った鉄砲が当り、その傷が元で破傷風になったのではないかとされているのに、ご先祖様が血を流して築き上げた徳川幕府を守るどころか倒しちゃってるんだから
まぁ、井伊家が幕府に盾突く原因が桜田門外の変の井伊直弼暗殺だから、一族としては直弼の敵討ち!という気持ちもあったのだろう
そのお陰で日本はようやく、長い鎖国時代を終え近代化に向け新たな歴史をスタートさせたのだから、ありがたいっちゃぁありがたいが、家康が建てた幕府をめっちゃくちゃに壊した中にこの井伊家と半蔵の子孫(あるいは一族)が加担してるのは、なんと言う因果だろうか
ありがとう、井伊家のみなさん

色んな本を読んでいると、意外なところで色んな人物が繋がったりするのが面白いと感じるのが殆どだが、やっぱり史実と違うことを書いて本にして金を得ている人間が実際に居たりするので、その辺の見極めが肝心だと思いつつも、石田三成の名前があるとついつい衝動的に買ってしまう今の自分を何とかしたい
とりあえず世間に蔓延る本書き作家さん
石田三成の名前を出せば本は売れると思わず、ちゃんと検証してから書いてくださいね
じゃないとわたし、破綻してしまいます(涙の訴え
わたしが司馬遼太郎の『関ヶ原』を好きになれない理由

逢って間もない女と肉体関係を簡単に持ったこともそうだけど、書いた人間が古いからか、人間描写があまりにもなさ過ぎる
上巻の半分も読まない内に、嫌気が差した
これは官能小説か?
男が読めばなるほど、面白いだろう
男ではないわたしが読んだら、不愉快な部分がありすぎる
大枚はたいて買ったけど、読みたくないこの小説をどうしようか悩んでいる

わたしが司馬遼太郎の『関ヶ原』を嫌いな理由

この作者は、石田三成を一人の男として描きたかったのだろう
当たり前の、脂の乗った年齢の男として書きたかったのだろう
だけど、どうしても許せない部分があった

作中石田三成は、女を抱きながらこんな言葉を吐いた
「俺を好きで居てくれるのは左近とお前だけだ」

許せない。と、思った
史実の三成さんなら、こんなこと、絶対言わないと、自分勝手にだけどそう思った
左近ファンなら、嬉しい言葉だろう
だけどわたしは、大谷大好きだ
損得なしで三成さんと付き合っていた大谷が大好きだ
命運を共にした仲間、家臣達の存在を忘れたかのような、この暴言
関ヶ原で命を落とした大勢の人達に対し、こんな失礼な言葉はないと思った
好きじゃなかったら、大谷は不利とわかっていながら最前線に立っただろうか
六条河原で首を落とされた三成さんの、後を追った小姓を知っているだろうか
別れ際、涙を流した家臣達は
三成さんの盾になった人達は

みんな、三成さんが大好きだったんだよ・・・・・・・・・・


兼続を題材にした小説・天地人
書店に並んでいた
少しだけめくってみた
当たり前のように、ここでも清正・正則コンビが悪役として登場していた
正則は知らない
だけど、もうそろそろ、清正を悪役にするのはやめたらどうだろう
清正は三成さんに対して、刀を向けたわけじゃない
確かに九州で、三成さんに味方した立花宗茂と小西の城を落としたかも知れない
でも、三成さんに対して刃を向けたわけじゃない
三成さんを悪く言っていたのも、ただの通説じゃないのか?

それまでは悪者だった三成さんがクローズアップされ、それまでは英雄扱いされていた清正が、今度は悪者になってしまっている
嘗てのわたしもそうだった
清正が嫌いだった時期もあった
だけど、そう言うの、なんて言うか、不毛・・・って言うか
『善』があれば『悪』がある
鏡の前に物を置いたら同じものが写るように、『善』の向こうには『悪』がある
徳川政権時代は、三成さんが悪だった
明治が終わり、昭和に入る頃には三成さんは、一部の人間の間では『善』になった
そして、平成の世、三成さんと対立していた清正が『悪』になった

人間は同じことを繰り返す
同じことを繰り返しながら、何も学ばない
愚かで野蛮な生き物だと思う

三成さんも、そんな人間の一人なのだと思う
ただ、他の人間よりも少しだけ、生き方が綺麗なだけだったんだと思う
それでも三成さんファンはやめないけれど、少しだけ、三成さんと対立していた人間を好きにはなりたいと思ってる

直政が好きになった
本当はいいやつだったんじゃないかと、思えるようになった
清正が少しだけ気になるようになった
本当はそれほど三成さんと仲が悪くなかったんじゃないかと、思えるようになった

みんな歴史の人達だから
だから、自分勝手に想像してみる

みんなそれぞれ心の中に、自分なりの正義があったんだと


8月の終わりに出掛けた、三成さんの生家跡地
帰りに彦根に寄ってみた
到着した頃にはもう、6時を回っていた
空が暗かった


駅前にある直政の銅像も、まともには撮れなかった
どうしても、『いしだみつにゃん』の何かしらのグッズが欲しくて
土産物で売ってるだろうと高を括ったが、ひこにゃんしか手に入れることができなかった

駅前のロータリーにある直政像
その周りを囲むように、幟が犇いて立っていた



ここのところの三成さん人気の所為だろうか
三成さんの『佐和山城』が復元されるイベントのようで、9月に入ったら是非とも行ってみようと思っていた


9月某日
晴れ


何となく、駅前の直政に「ただいま」の一言
多分もう、来ることはないだろうが(汗

前回は時間が間に合わず店が閉まってしまい、買えなかったみつにゃんグッズを先に買おうと、駅前の観光案内所で詳しく聞いた店に直行
その店がある商店街で、こんな立て札を発見


三成さんのことを書いてるのに、立てた集まりが『彦根左近の会』て・・・

ここでは左近が主人公のようで、三成さんは呼び捨てで書かれてました
実際左近がやった仕事って?
三成さんの子守?
左近を未だよくわからないわたしには、なんで家臣が主君の上に来るんだ。と言う憤慨しか持てず(汗
短い間だったけど、この辺りのお殿様だったんだから、せめて『三成公』って書いたらどうなんだ
と、ちょっとだけ立腹

みつにゃんグッズを売っているお店で、意外なものを発見


兼続の、『愛』の前立て(紙製レプリカ)

それと、お店のご主人のご厚意で組み立ててもらった、実際の左近の鎧兜(紙製レプリカ)


手が震えて、何度やっても手ブレが・・・



こちらは商店街とは違う、キャッスルロードにある四番街スクエアのグッズショップの前に並んでいた『さこにゃん』と『みつにゃん』
殿と左近は二人で一つの存在のようで
わたしとしてはもうそろそろ、殿&大谷&小西の『義兄弟』(三国志みたいな?)トリプルが見たい・・

彦根城にあるキャッスルロードは、江戸時代の風景を再現した町並みにしているそうだ



つってもあたし、江戸時代を知らないからなんとも言えない・・・
上の写真は『両替商』=『銀行』


キャッスルロードの入り口付近はこんな感じ


にぎわっている店の前

やっぱり人工的な町だから、情緒って言うか、感動が薄い
無理矢理な感じがするし、それほど綺麗な町並みには感じない、なんとなく『当たり前』な風景に感じたのが残念

キャッスルロードから彦根駅前に戻り、佐和山一夜城のイベント地へ行くため、観光案内所の人が教えてくれたレトロバスの乗り場へ
ボランティアらしいおばさんが、短いながらもガイドをしながら走る町並みを紹介してくれた
浅井の家臣達が長政の父親を幽閉したと言う、竹生島も見えました
近江(滋賀)は良いなぁ
わたしが好きなものがたくさんある
お茶に、お米
三成さんに、長政に、直政
いつか住んでみたいなぁと言う気持ちが、どんどん積もる

やがてバスは佐和山に到着
井伊家の菩提寺は参拝できないので、他の神社に

直政の出身である井伊谷の龍潭寺にちなんだお寺で、こんなものを発見


なんで井伊の社寺で三成さんに関連するものが見られるのか、わからない
でもなんとなく、理解できるような気がした

これは、三成さんを初め関ヶ原で散った武将達、それから、家康が壊した石田家先祖代々の墓に眠っていた魂を祀るために建てられたのかな?
それとも、最近のものだろうか
その辺りの説明がなかったので、想像しかできない
少なくとも400年前のものには見えなかった観音像


井伊家の人々は、三成さんを嫌ってるわけではないことが見えたような気がして、ちょっと嬉しかった


ふと、疑問に思うことがあった
直政を良く知りたいのだけど、あまりサイトには引っ掛からないし、Wikiにも信憑性の薄いものしか書かれてなくて、知りたいことが何もわからない状態で、わたしが勝手に想像したこと

直政は、三成さんをちょっとだけ、好きになったんじゃないのかなぁ・・と言う、わたしの思い込み
直政は、元々は遠江(静岡県)の人
家康に取り立てられ、上野(群馬)の領主になったけど、関ヶ原で敗れた三成さんの佐和山を与えられた
Wikiには直政は三成さんを嫌っていて、佐和山をもらっても嬉しくなかったようなことが書かれていた
嬉しくないのなら、何故直政は佐和山で生涯を終えたのだろう
どうして上野に戻らなかったのだろう
佐和山は三成さんが基礎を作っていたし、直政も三成さんのやり方を変えようとはしなかった
なら、他の誰かに任せて、自分は上野に戻ればよかったのに
どうして家康から遠く離れたこの地に骨を埋めたのだろう

直政は、三成さんが作り上げた佐和山が好きになったんじゃないかなぁ・・・と、「だったら良いな」な気持ちが溢れて来た


観音像を超えると


ここにもちっさいおっさん
・・・もとい
三成さん像が

長浜にある三成さん像より一回り小さいサイズのものが鎮座しておりました
やっぱり、三成さんってゆうより、三成さんのお父さん(汗


長浜と違って見るものの少ない場所だからか、龍潭寺を出ると真っ直ぐイベント会場へ


この幟を見ただけで、胸が躍り出した

中に入ると、関ヶ原の西軍・東軍の主たる武将達の名前が、手書きで書かれた幟がずらりと並んでました

大谷だけ、名前の向きが裏表反対だったのよ・・・
かなり気になった

これが今回のイベントで有志が集まって作成された佐和山城(の、ようなもの)の復元パネル


小大名規模のお城じゃないなぁ〜と、改めて三成さんの力の大きさを知った
実際の佐和山城とは違うけれど、5階建ては当時でも相当なものだったんじゃないかと思う
信長の安土城、光秀の坂本城、そして、秀吉の大坂城を直に見ていた三成さん
三成さんが大大名だったら、もっと凄いものを建てたんじゃないかなと、思った

イベント前の会場内は、既に人がたくさん集まってました
夕方から甲冑劇があると教えてもらい、時間を潰すことに
会場では『ぼったくり屋台』や、無料のイベントコーナー(ぬりえコーナー)がありました
時間が近付いて来ると、来場客はこれの2倍くらいに



大谷(有志の方)発見

興奮度アップ

甲冑劇の始まり
出演者の人達が舞台前に勢ぞろい
大谷、三成さん以外、誰が誰やらさっぱりわからんかった


捕まった三成さん


わたしには三成さん役の人がどうしても、次長課長の背が低い方の人に見えて仕方なかった・・・

劇の内容は、大雑把に言えば佐和山城落城までを描いた、創作含むなものですが、笑い所ありで全体的には面白かったです

が、わたしのようなゲームから入ったマニアも大勢居て、ちょっと周囲の雰囲気が怖かったです
8月某日、三成さんの生まれた場所へ


ずっと行きたかったところだったので、ワクワクしながら行きました
早く、三成さんの触れた空気に、自分も触れたい
そんな気持ちです

喧騒な街しか知らないわたしには、大阪を少し離れるだけで自然溢れる長閑な風景に思えた
2時間足らずで長浜へ
そこからバスを利用して石田町へ
バスを降りると、目の前にこんな石碑が


この辺り一体が、三成さんの実家のあった場所のようで、当時でも相当広い面積を誇っていたのが伺える
土豪(村長)の生まれであっても、そこらの小大名の城より広かったのではないかと想像
なんとなく、三成さんの息遣いが聴こえるよう

町全体をもっと丁寧に撮影すればよかったと、今も後悔
はしゃいでしまって、ろくなものを撮影してません
今もまだ、どこかで息吹く三成さんの存在
徳川幕府によって天下無双の大悪人にされてしまったけれど、それでも三成さんの実像を知る人々の言葉によって、ここには徳川ですら穢せなかった三成さん像が生きている
そんな気がした



最近の、三成さん人気に肖って、新しく作られたのだろうか
真新しい印象に、これが三成さんのシンボルのようでもある
やはり地元では『三献茶』伝説が、根強く残っているようでした

この町には、三成さん所縁の武将たちのネームプレートが点在します
バス停目の前には、三成さんのお父さんの名前がありました

プレートの直ぐ横に、その武将を紹介したものも並んでます
ある程度は知っていても、改めて読んでみると感慨深いものも

ゲームの戦国無双2にすら出て来なかった、三成さんの忠臣のプレートなどもありました

この方の名前は、磯野平三郎
初めて目にする名前でした


左近のプレートを見付けた時は、狂喜乱舞しました
家臣が主君を裏切るのは日常茶飯事だった、人を信じるのが難しい時代、三成さんは家臣に恵まれ、友に恵まれ、きっと、当時の人間としては幸せな時間を他の誰よりも過ごせていたのではないかと思いますし、でもやはり根本は、三成さんの人柄によるところもあるのではないだろうかとも、思いました
人間的に魅力的だった三成さん
益々慕情が積もります

他に見付けた武将はまたの機会に、見付けたものだけですが全部を貼りたいと思ってます

急いた気持ちを抑えられず、三成さんの実家屋敷があったと思われる場所へ
そこに鎮座していた、ちっさいおっさん
・・・もとい、三成さん


どう見ても、三成さんのお父さんとしか・・・(汗

三成さんの生家屋敷跡の全体を撮りたかったのですが、周囲との関係上、内部だけを撮影しました

小説・石田三成にも出て来た人口の池
今も清らかな水が注がれています

が、蜘蛛の巣が張り巡らされていて、撮影に難く・・・(汗
池も、とても小さなものになっていました
湧き水を受けているだけの、小さなものです
当時はどれだけの規模だったのか、想像は難しいです

これは灯篭と言うのでしょうか

中央に、石田家の家紋である『大一大万大吉』の文字が
これだけでも、「あぁ、三成さんの所縁のある場所なんだ・・・」と感動できました

敷地内には「石田会館」と言う、公民館のような小さな建物がありました
その手前にお手洗いがあるのですが、その看板にも

三成さんの家紋が

恐れ多くて(実は怖くて)入れません
何が出て来るか、都会人には想像できない(これが本音)

三成さんの生家跡地のここに、見慣れない虫?と言うのか、何なのか

これは、蜉蝣(かげろう)なのでしょうか?
トンボと蝶の間のような感じで、重量感の感じられない雰囲気がしました
ここは空気と水の綺麗な場所なんだなと、思いました

三成さんの実家周辺の様子は、小説である程度予備知識としては持っていても、その通りな建物があり過ぎて、胸にじーんと来ます
と言っても、小説はあくまで小説
それが事実ではなく、著者はこの周辺を取材には来ていたのでしょうか
書かれている通りのものが点在


周辺地図にある八幡神社
これは小説に出て来る神社と同じで、小説内では三成さんの生家屋敷内にあり、地元の民は『石田神社』として崇めていたと書かれてます
その八幡神社と隣接して現存する『石田神社』



三成さんは、この石田町(石田村)で生まれたから石田なのか、三成さんの先祖が代々からここに居たから土地の名前が『石田』になったのかは、わかりません
だけど、ここは確かに三成さんが存在した場所なのでしょうか
世間に『石田』の名を持つ人物は大勢居るけれど、わたしの中で『石田』と言えば『三成さん』しか思い浮かばない
その存在感の大きさ
407年前に死んだ人なのに・・・


石田神社内部に、三成さん直筆の和歌が石碑になってます
流麗な美しい文字を書いたとされている三成さん
綺麗な人柄(聖人君子とは違う)が文字にも現れていました

三成さんの供養塔


三成さんが生前、自分のために建てた墓を模倣しているのでしょうか
周辺の小さなものは恐らく、父兄や家臣たち、そして大谷や小西のものも含まれると思います
訪れる人は居なかったけれど、日頃から管理されているのかとても綺麗にされてました
三成さんは今も、愛されているんですね

自分を愛してくれ、そして、自分も愛した人たちに囲まれた三成さん
観光客でにぎわう大きな寺に祀られた他の武将よりももっともっと、死後も幸せな時間を過ごせているような気がしました


三成さんの生家跡と、三成さんが預けられていたとされている観音寺の間に、石田山公園なるものが存在します


行ってみたいとは思うのですが、如何せん



入り口がこんな欝蒼とした、道なき道のため、都会人には耐えられません
入り口付近には「猿出没」やら「熊注意」やらの立て看板が

余計無理

三成さんが学問のため預けられていたと伝承のある観音寺

入り口手前には、秀吉に出した茶の湯を汲んだとされている井戸もありました

ここも、人気(ひとけ)はゼロ
閑散としていました
が、他の、今まで見て来た寺・神社に比べたら、段違いに綺麗な場所でした
欝蒼とした雰囲気は全くなく、神社にはつき物の薮蚊も飛んでいません
今も誰かが住んでいて、「こんにちは」と声を掛けられるような、そんな雰囲気がしました


ここで三成さんが寝起きをしていたのかな?
それとも、通っていたのかな?
人が住むには少し小さいけれど、ここに佐吉少年が歩き回っていたのかと思うだけで、来てよかったと感じられました


石田町は、長閑な場所でした
空気の優しい場所でした
こんなところに住みたい
そう思わされる場所でした
時代は流れ、空も変わったでしょう
だけど今も穏やかに流れる、三成さんの空気を感じました


人は、誰かに愛される分だけ、誰かに憎まれる
それは生きている間仕方のないことだとしても、三成さんは死んだ後でも憎まれ続けた
憎まれるだけ、三成さんの生き方は、当時としては破天荒なものだったのだろうか
人としての理想をそのまま実行していた三成さん
今の政治家が教えてくれるように、綺麗な身の人間はどこにも居ない
みんなどこか、汚れた部分を持って生きている
仕方がないと、まるで徳川家康のように、自分を正当化しながら
人に罪を着せながら
それが人間の弱さであり、卑怯な部分でもある
当たり前のことかも知れない
それでも、時代に逆らってでも綺麗な生き方を貫き通した三成さんは、大勢の人に心から愛され、そして愛されたまま死んだ
三成さんを愛した人々は、徳川の迫害にも負けず、その心を失くさず、今を生きるわたし達に三成さんを教えてくれる

信長に最後まで付き従った乱丸
長政と共に、強大な敵・信長に立ち向かった家臣たち
家康にですら、忠義を尽くした家臣は大勢居る
だけど、ふと思う
三成さんほど愛された人は、居ただろうか
家康は、徳川幕府を立てた立派な人物だ
なのに、彼の家臣で、歴史に詳しくない人間ですら知られているような有名な人間は居るだろうか
戦国無双2をやるまでは、わたしは服部半蔵しか知らなかった
あれだけの大仕事をやってのけ、東照宮として祭られているほどの人物なのに
わたしは、それまで井伊家の有名な人間と言えば、桜田門外の変で暗殺された直弼しか知らなかった
直政を知らなかった
歴史に明るくなくても、それでも、三成さんは知っていた
その人物像はひどく歪められたものだとしても、それでも誰でも知っている三成さん

徳川は徹底的に、三成さんを悪人扱いし、家康を救世主として祭り上げた
それは、幕府離れした民衆の心を取り戻すために
だけど
歴史から抹殺された三成さんの汚名を払うかのように、民衆は『真田幸村』を生み出した
当時の三成さんは、禁じられているキリスト教と等しい存在にされていた
その鬱積を払うかのように、幸村が槍を持ち、家康を苦しめた

人は決して心から、家康を愛していたわけではない

その恩恵に従っただけなのだと知った時、家康は見かけだけ幸せで、中身は寂しい人だったんだと知った


関ヶ原から2年
家康の最愛の人、直政がこの世を去った
その悲しみを、自らの手で死に追い込んだ三成さんにぶつけた
「三成が直政を連れて行った」と思い込むことで、自分の気持ちを納得させようとしていた
人間の弱さゆえの行動
誰にでもある感情
理解できる
だけど、自分が愛し、庇護した井伊家によって、徳川幕府はその長い歴史に終止符を打たねばならなくなったのはなんと言う因縁だろうか
家康が破壊した石田家先祖代々の墓を再建したのは、彦根藩11代目藩主・直中だと言う
直政は、三成さんの最後を世話した人物である
通説では直政は三成さんを嫌っていたと言う
そんな人物のために、自分の主君が壊した墓を再建するだろうか
自分の先祖を呪い殺したとされる三成さんのための供養塔を建てるだろうか
もしかしたら

名僧・沢庵を魅了したように、直政もまた、三成さんの人柄に魅了された一人ではないだろうか


そんな気がした


駅に戻って、長浜城を入った
展示室は小さいけれど、見るものがたくさんあった
徳川家所縁の人間の展示物もあって、こんなところに人の器の違いが伺える
何故なら、和歌山城には豊臣所縁の人間の展示物は一つもないからだ
本当に、徳川って人間が小さい
中の展示の仕方などは大阪城の天守閣に似ている雰囲気がした
そんな展示物を眺めていて、愛すべきキャラクターを発見した



これ、長浜のキャラクターにならないだろうかと、心の底から思った・・・

ひこにゃんの可愛らしさには敵わないだろうが、三成人気の今、何をしても売れるような気がする
敬愛する三成さんのイベントに行きました


8月の終わり、三成さんの生地である滋賀県長浜市石田町に行って参りました
三成さんは400年を経た今でも英雄らしく、深く愛されておりました
力尽き(持病持ちのため)、清水の舞台から綱なしバンジーをやるつもりで拾ったタクシーの運転手さんからも、三成さんの話をたくさん聴けました
その帰りに、折角来たのだからと彦根に途中下車し、そこで『佐和山一夜城祭り』があることを知り、最終日に近い土曜日に行って来ました
佐和山に行く前に、前回の彦根訪問の際に買えなかった『いしだみつにゃん』のグッズを、今回は日がある内に買わなくては!と、先に買いに行って来ました

彦根城周辺のキャッスルロードにある四番街スクエアには、三成さん・左近をキャラクターにしたグッズを置いている、綺麗な店があります
しかしわたしは、その店の存在を知らず、駅前に設置されていた観光案内所で聴いた花しょうぶ商店街の店に真っ直ぐ向かいました
この商店街には、ネットでも話題になっている「しょうぶ屋」と言う、戦国武将を金儲けの道具にしている店があります
遠いところまで歩いたのだから、ついでに覗いてみれば良かったと、帰宅した後思いました
それは兎も角として、花しょうぶ商店街にある小汚いグッズ店で買い物をして良かったと思えることがたくさんありました
この商店街には、今も左近を愛する人々が大勢居ます
その集まりを『彦根左近会』と呼びます
彦根は、元々は三成さんが統治していた佐和山の外れにあります
関ヶ原での敗戦後、三成さんが愛したこの土地は徳川家康によって穢されました
しかし、三成さんの遺志を継いだ井伊家が、家康(徳川)の手から守り抜いた土地でもあります
故に、関ヶ原後でも三成さんや左近を愛する人々を庇護していた場所でもあり、400年の今でもこの二人を英雄として崇めることができるのも、偏に井伊家のお陰ではないだろうかと思えるようになりました
その彦根左近会の御仁だと思えるご老人から、世間にあるサイトでは絶対に手に入れることのできない貴重な情報を頂きました
それが、題目にしている通りの、『直江兼続は石田三成の友達ではなかった』です

どうしてここに直江の『愛の前立て』があるのか?と尋ねました
やっぱり三成さんの友達だからか?と聴いたところ、そのご老人はキョトンとした顔で、「へ?」と、逆に訊き返されました
「直江兼続は、石田三成の友達じゃないよ?直江は左近の友達だったんだよ」

えぇぇぇぇ?!です

なんで?と訊き返したら、ご老人は「兼続は上杉家の軍師だから、同じ軍師同士仲が良かったんじゃないか?」とのこと
じゃぁ、三成さんとの関係は?と訊けば

「さぁ?」
と、首を傾げられました

『敗者から見た関ヶ原合戦』をある程度読んでみて(内容が濃いので、時間を掛けてゆっくり読んでいる最中です)、三成さんが兼続を信頼していたような感じには見受けられなかったので、ゲームやWikiに書かれていることは、実は出鱈目じゃないかとは思ってましたし、過去の記事にも『三成さんには宛にされてなかった兼続』と書きましたが、まさかそれが本当のことだったとは思いもしませんでした
つまり、三成さんにとって兼続は自分の家臣の友達であり、三成さんと兼続の縁は極めて薄く、長谷堂で兼続が最上軍相手に戦っていたのも三成さんのためではなく、単に上杉家のためであり、兼続が三成さんの応援で戦ったのではないような気がしました
寧ろその逆で、三成さんが関ヶ原で徳川軍を討ち滅ぼし、その進軍で長谷堂の上杉軍を応援する予定だったのではないかと
だから、西軍敗退の報せを受け、応援が来ないことを知った景勝は早々の撤退を決定したのではないかと
だから、毛利輝元が関ヶ原の責任を全て三成さんに押し付けたのと同じく、景勝も呼応を三成さんの責任になすり付けることで助命を得たのではないかと
縁が薄ければ、責任転嫁は気が楽でしょうから
そうなると、三成さんと最後まで行動を共にしていた宇喜多が清々しく感じました
ほんと、泳いで大坂まで来て欲しかったですわ

彦根で、語られることのなかった意外な真実を知った翌日、高熱に倒れたわたしは、現在も微熱続きで何もできません
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