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- The blog site of only an Sengoku Musou2 (Samurai Warriors 2). By Haruhi -
8月某日、三成さんの生まれた場所へ

ずっと行きたかったところだったので、ワクワクしながら行きました
早く、三成さんの触れた空気に、自分も触れたい
そんな気持ちです
喧騒な街しか知らないわたしには、大阪を少し離れるだけで自然溢れる長閑な風景に思えた
2時間足らずで長浜へ
そこからバスを利用して石田町へ
バスを降りると、目の前にこんな石碑が

この辺り一体が、三成さんの実家のあった場所のようで、当時でも相当広い面積を誇っていたのが伺える
土豪(村長)の生まれであっても、そこらの小大名の城より広かったのではないかと想像
なんとなく、三成さんの息遣いが聴こえるよう
町全体をもっと丁寧に撮影すればよかったと、今も後悔
はしゃいでしまって、ろくなものを撮影してません
今もまだ、どこかで息吹く三成さんの存在
徳川幕府によって天下無双の大悪人にされてしまったけれど、それでも三成さんの実像を知る人々の言葉によって、ここには徳川ですら穢せなかった三成さん像が生きている
そんな気がした

最近の、三成さん人気に肖って、新しく作られたのだろうか
真新しい印象に、これが三成さんのシンボルのようでもある
やはり地元では『三献茶』伝説が、根強く残っているようでした
この町には、三成さん所縁の武将たちのネームプレートが点在します
バス停目の前には、三成さんのお父さんの名前がありました

プレートの直ぐ横に、その武将を紹介したものも並んでます
ある程度は知っていても、改めて読んでみると感慨深いものも
ゲームの戦国無双2にすら出て来なかった、三成さんの忠臣のプレートなどもありました

この方の名前は、磯野平三郎
初めて目にする名前でした

左近のプレートを見付けた時は、狂喜乱舞しました
家臣が主君を裏切るのは日常茶飯事だった、人を信じるのが難しい時代、三成さんは家臣に恵まれ、友に恵まれ、きっと、当時の人間としては幸せな時間を他の誰よりも過ごせていたのではないかと思いますし、でもやはり根本は、三成さんの人柄によるところもあるのではないだろうかとも、思いました
人間的に魅力的だった三成さん
益々慕情が積もります
他に見付けた武将はまたの機会に、見付けたものだけですが全部を貼りたいと思ってます
急いた気持ちを抑えられず、三成さんの実家屋敷があったと思われる場所へ
そこに鎮座していた、ちっさいおっさん
・・・もとい、三成さん

どう見ても、三成さんのお父さんとしか・・・(汗
三成さんの生家屋敷跡の全体を撮りたかったのですが、周囲との関係上、内部だけを撮影しました
小説・石田三成にも出て来た人口の池
今も清らかな水が注がれています

が、蜘蛛の巣が張り巡らされていて、撮影に難く・・・(汗
池も、とても小さなものになっていました
湧き水を受けているだけの、小さなものです
当時はどれだけの規模だったのか、想像は難しいです
これは灯篭と言うのでしょうか

中央に、石田家の家紋である『大一大万大吉』の文字が
これだけでも、「あぁ、三成さんの所縁のある場所なんだ・・・」と感動できました
敷地内には「石田会館」と言う、公民館のような小さな建物がありました
その手前にお手洗いがあるのですが、その看板にも

三成さんの家紋が
恐れ多くて(実は怖くて)入れません
何が出て来るか、都会人には想像できない(これが本音)
三成さんの生家跡地のここに、見慣れない虫?と言うのか、何なのか

これは、蜉蝣(かげろう)なのでしょうか?
トンボと蝶の間のような感じで、重量感の感じられない雰囲気がしました
ここは空気と水の綺麗な場所なんだなと、思いました
三成さんの実家周辺の様子は、小説である程度予備知識としては持っていても、その通りな建物があり過ぎて、胸にじーんと来ます
と言っても、小説はあくまで小説
それが事実ではなく、著者はこの周辺を取材には来ていたのでしょうか
書かれている通りのものが点在

周辺地図にある八幡神社
これは小説に出て来る神社と同じで、小説内では三成さんの生家屋敷内にあり、地元の民は『石田神社』として崇めていたと書かれてます
その八幡神社と隣接して現存する『石田神社』

三成さんは、この石田町(石田村)で生まれたから石田なのか、三成さんの先祖が代々からここに居たから土地の名前が『石田』になったのかは、わかりません
だけど、ここは確かに三成さんが存在した場所なのでしょうか
世間に『石田』の名を持つ人物は大勢居るけれど、わたしの中で『石田』と言えば『三成さん』しか思い浮かばない
その存在感の大きさ
407年前に死んだ人なのに・・・

石田神社内部に、三成さん直筆の和歌が石碑になってます
流麗な美しい文字を書いたとされている三成さん
綺麗な人柄(聖人君子とは違う)が文字にも現れていました
三成さんの供養塔

三成さんが生前、自分のために建てた墓を模倣しているのでしょうか
周辺の小さなものは恐らく、父兄や家臣たち、そして大谷や小西のものも含まれると思います
訪れる人は居なかったけれど、日頃から管理されているのかとても綺麗にされてました
三成さんは今も、愛されているんですね
自分を愛してくれ、そして、自分も愛した人たちに囲まれた三成さん
観光客でにぎわう大きな寺に祀られた他の武将よりももっともっと、死後も幸せな時間を過ごせているような気がしました
三成さんの生家跡と、三成さんが預けられていたとされている観音寺の間に、石田山公園なるものが存在します

行ってみたいとは思うのですが、如何せん

入り口がこんな欝蒼とした、道なき道のため、都会人には耐えられません
入り口付近には「猿出没」やら「熊注意」やらの立て看板が
余計無理
三成さんが学問のため預けられていたと伝承のある観音寺

入り口手前には、秀吉に出した茶の湯を汲んだとされている井戸もありました
ここも、人気(ひとけ)はゼロ
閑散としていました
が、他の、今まで見て来た寺・神社に比べたら、段違いに綺麗な場所でした
欝蒼とした雰囲気は全くなく、神社にはつき物の薮蚊も飛んでいません
今も誰かが住んでいて、「こんにちは」と声を掛けられるような、そんな雰囲気がしました

ここで三成さんが寝起きをしていたのかな?
それとも、通っていたのかな?
人が住むには少し小さいけれど、ここに佐吉少年が歩き回っていたのかと思うだけで、来てよかったと感じられました
石田町は、長閑な場所でした
空気の優しい場所でした
こんなところに住みたい
そう思わされる場所でした
時代は流れ、空も変わったでしょう
だけど今も穏やかに流れる、三成さんの空気を感じました
人は、誰かに愛される分だけ、誰かに憎まれる
それは生きている間仕方のないことだとしても、三成さんは死んだ後でも憎まれ続けた
憎まれるだけ、三成さんの生き方は、当時としては破天荒なものだったのだろうか
人としての理想をそのまま実行していた三成さん
今の政治家が教えてくれるように、綺麗な身の人間はどこにも居ない
みんなどこか、汚れた部分を持って生きている
仕方がないと、まるで徳川家康のように、自分を正当化しながら
人に罪を着せながら
それが人間の弱さであり、卑怯な部分でもある
当たり前のことかも知れない
それでも、時代に逆らってでも綺麗な生き方を貫き通した三成さんは、大勢の人に心から愛され、そして愛されたまま死んだ
三成さんを愛した人々は、徳川の迫害にも負けず、その心を失くさず、今を生きるわたし達に三成さんを教えてくれる
信長に最後まで付き従った乱丸
長政と共に、強大な敵・信長に立ち向かった家臣たち
家康にですら、忠義を尽くした家臣は大勢居る
だけど、ふと思う
三成さんほど愛された人は、居ただろうか
家康は、徳川幕府を立てた立派な人物だ
なのに、彼の家臣で、歴史に詳しくない人間ですら知られているような有名な人間は居るだろうか
戦国無双2をやるまでは、わたしは服部半蔵しか知らなかった
あれだけの大仕事をやってのけ、東照宮として祭られているほどの人物なのに
わたしは、それまで井伊家の有名な人間と言えば、桜田門外の変で暗殺された直弼しか知らなかった
直政を知らなかった
歴史に明るくなくても、それでも、三成さんは知っていた
その人物像はひどく歪められたものだとしても、それでも誰でも知っている三成さん
徳川は徹底的に、三成さんを悪人扱いし、家康を救世主として祭り上げた
それは、幕府離れした民衆の心を取り戻すために
だけど
歴史から抹殺された三成さんの汚名を払うかのように、民衆は『真田幸村』を生み出した
当時の三成さんは、禁じられているキリスト教と等しい存在にされていた
その鬱積を払うかのように、幸村が槍を持ち、家康を苦しめた
人は決して心から、家康を愛していたわけではない
その恩恵に従っただけなのだと知った時、家康は見かけだけ幸せで、中身は寂しい人だったんだと知った
関ヶ原から2年
家康の最愛の人、直政がこの世を去った
その悲しみを、自らの手で死に追い込んだ三成さんにぶつけた
「三成が直政を連れて行った」と思い込むことで、自分の気持ちを納得させようとしていた
人間の弱さゆえの行動
誰にでもある感情
理解できる
だけど、自分が愛し、庇護した井伊家によって、徳川幕府はその長い歴史に終止符を打たねばならなくなったのはなんと言う因縁だろうか
家康が破壊した石田家先祖代々の墓を再建したのは、彦根藩11代目藩主・直中だと言う
直政は、三成さんの最後を世話した人物である
通説では直政は三成さんを嫌っていたと言う
そんな人物のために、自分の主君が壊した墓を再建するだろうか
自分の先祖を呪い殺したとされる三成さんのための供養塔を建てるだろうか
もしかしたら
名僧・沢庵を魅了したように、直政もまた、三成さんの人柄に魅了された一人ではないだろうか
そんな気がした
駅に戻って、長浜城を入った
展示室は小さいけれど、見るものがたくさんあった
徳川家所縁の人間の展示物もあって、こんなところに人の器の違いが伺える
何故なら、和歌山城には豊臣所縁の人間の展示物は一つもないからだ
本当に、徳川って人間が小さい
中の展示の仕方などは大阪城の天守閣に似ている雰囲気がした
そんな展示物を眺めていて、愛すべきキャラクターを発見した

これ、長浜のキャラクターにならないだろうかと、心の底から思った・・・
ひこにゃんの可愛らしさには敵わないだろうが、三成人気の今、何をしても売れるような気がする

ずっと行きたかったところだったので、ワクワクしながら行きました
早く、三成さんの触れた空気に、自分も触れたい
そんな気持ちです
喧騒な街しか知らないわたしには、大阪を少し離れるだけで自然溢れる長閑な風景に思えた
2時間足らずで長浜へ
そこからバスを利用して石田町へ
バスを降りると、目の前にこんな石碑が

この辺り一体が、三成さんの実家のあった場所のようで、当時でも相当広い面積を誇っていたのが伺える
土豪(村長)の生まれであっても、そこらの小大名の城より広かったのではないかと想像
なんとなく、三成さんの息遣いが聴こえるよう
町全体をもっと丁寧に撮影すればよかったと、今も後悔
はしゃいでしまって、ろくなものを撮影してません
今もまだ、どこかで息吹く三成さんの存在
徳川幕府によって天下無双の大悪人にされてしまったけれど、それでも三成さんの実像を知る人々の言葉によって、ここには徳川ですら穢せなかった三成さん像が生きている
そんな気がした

最近の、三成さん人気に肖って、新しく作られたのだろうか
真新しい印象に、これが三成さんのシンボルのようでもある
やはり地元では『三献茶』伝説が、根強く残っているようでした
この町には、三成さん所縁の武将たちのネームプレートが点在します
バス停目の前には、三成さんのお父さんの名前がありました

プレートの直ぐ横に、その武将を紹介したものも並んでます
ある程度は知っていても、改めて読んでみると感慨深いものも
ゲームの戦国無双2にすら出て来なかった、三成さんの忠臣のプレートなどもありました

この方の名前は、磯野平三郎
初めて目にする名前でした

左近のプレートを見付けた時は、狂喜乱舞しました
家臣が主君を裏切るのは日常茶飯事だった、人を信じるのが難しい時代、三成さんは家臣に恵まれ、友に恵まれ、きっと、当時の人間としては幸せな時間を他の誰よりも過ごせていたのではないかと思いますし、でもやはり根本は、三成さんの人柄によるところもあるのではないだろうかとも、思いました
人間的に魅力的だった三成さん
益々慕情が積もります
他に見付けた武将はまたの機会に、見付けたものだけですが全部を貼りたいと思ってます
急いた気持ちを抑えられず、三成さんの実家屋敷があったと思われる場所へ
そこに鎮座していた、ちっさいおっさん
・・・もとい、三成さん

どう見ても、三成さんのお父さんとしか・・・(汗
三成さんの生家屋敷跡の全体を撮りたかったのですが、周囲との関係上、内部だけを撮影しました
小説・石田三成にも出て来た人口の池
今も清らかな水が注がれています

が、蜘蛛の巣が張り巡らされていて、撮影に難く・・・(汗
池も、とても小さなものになっていました
湧き水を受けているだけの、小さなものです
当時はどれだけの規模だったのか、想像は難しいです
これは灯篭と言うのでしょうか

中央に、石田家の家紋である『大一大万大吉』の文字が
これだけでも、「あぁ、三成さんの所縁のある場所なんだ・・・」と感動できました
敷地内には「石田会館」と言う、公民館のような小さな建物がありました
その手前にお手洗いがあるのですが、その看板にも

三成さんの家紋が
恐れ多くて(実は怖くて)入れません
何が出て来るか、都会人には想像できない(これが本音)
三成さんの生家跡地のここに、見慣れない虫?と言うのか、何なのか

これは、蜉蝣(かげろう)なのでしょうか?
トンボと蝶の間のような感じで、重量感の感じられない雰囲気がしました
ここは空気と水の綺麗な場所なんだなと、思いました
三成さんの実家周辺の様子は、小説である程度予備知識としては持っていても、その通りな建物があり過ぎて、胸にじーんと来ます
と言っても、小説はあくまで小説
それが事実ではなく、著者はこの周辺を取材には来ていたのでしょうか
書かれている通りのものが点在

周辺地図にある八幡神社
これは小説に出て来る神社と同じで、小説内では三成さんの生家屋敷内にあり、地元の民は『石田神社』として崇めていたと書かれてます
その八幡神社と隣接して現存する『石田神社』

三成さんは、この石田町(石田村)で生まれたから石田なのか、三成さんの先祖が代々からここに居たから土地の名前が『石田』になったのかは、わかりません
だけど、ここは確かに三成さんが存在した場所なのでしょうか
世間に『石田』の名を持つ人物は大勢居るけれど、わたしの中で『石田』と言えば『三成さん』しか思い浮かばない
その存在感の大きさ
407年前に死んだ人なのに・・・

石田神社内部に、三成さん直筆の和歌が石碑になってます
流麗な美しい文字を書いたとされている三成さん
綺麗な人柄(聖人君子とは違う)が文字にも現れていました
三成さんの供養塔

三成さんが生前、自分のために建てた墓を模倣しているのでしょうか
周辺の小さなものは恐らく、父兄や家臣たち、そして大谷や小西のものも含まれると思います
訪れる人は居なかったけれど、日頃から管理されているのかとても綺麗にされてました
三成さんは今も、愛されているんですね
自分を愛してくれ、そして、自分も愛した人たちに囲まれた三成さん
観光客でにぎわう大きな寺に祀られた他の武将よりももっともっと、死後も幸せな時間を過ごせているような気がしました
三成さんの生家跡と、三成さんが預けられていたとされている観音寺の間に、石田山公園なるものが存在します

行ってみたいとは思うのですが、如何せん

入り口がこんな欝蒼とした、道なき道のため、都会人には耐えられません
入り口付近には「猿出没」やら「熊注意」やらの立て看板が
余計無理
三成さんが学問のため預けられていたと伝承のある観音寺

入り口手前には、秀吉に出した茶の湯を汲んだとされている井戸もありました
ここも、人気(ひとけ)はゼロ
閑散としていました
が、他の、今まで見て来た寺・神社に比べたら、段違いに綺麗な場所でした
欝蒼とした雰囲気は全くなく、神社にはつき物の薮蚊も飛んでいません
今も誰かが住んでいて、「こんにちは」と声を掛けられるような、そんな雰囲気がしました

ここで三成さんが寝起きをしていたのかな?
それとも、通っていたのかな?
人が住むには少し小さいけれど、ここに佐吉少年が歩き回っていたのかと思うだけで、来てよかったと感じられました
石田町は、長閑な場所でした
空気の優しい場所でした
こんなところに住みたい
そう思わされる場所でした
時代は流れ、空も変わったでしょう
だけど今も穏やかに流れる、三成さんの空気を感じました
人は、誰かに愛される分だけ、誰かに憎まれる
それは生きている間仕方のないことだとしても、三成さんは死んだ後でも憎まれ続けた
憎まれるだけ、三成さんの生き方は、当時としては破天荒なものだったのだろうか
人としての理想をそのまま実行していた三成さん
今の政治家が教えてくれるように、綺麗な身の人間はどこにも居ない
みんなどこか、汚れた部分を持って生きている
仕方がないと、まるで徳川家康のように、自分を正当化しながら
人に罪を着せながら
それが人間の弱さであり、卑怯な部分でもある
当たり前のことかも知れない
それでも、時代に逆らってでも綺麗な生き方を貫き通した三成さんは、大勢の人に心から愛され、そして愛されたまま死んだ
三成さんを愛した人々は、徳川の迫害にも負けず、その心を失くさず、今を生きるわたし達に三成さんを教えてくれる
信長に最後まで付き従った乱丸
長政と共に、強大な敵・信長に立ち向かった家臣たち
家康にですら、忠義を尽くした家臣は大勢居る
だけど、ふと思う
三成さんほど愛された人は、居ただろうか
家康は、徳川幕府を立てた立派な人物だ
なのに、彼の家臣で、歴史に詳しくない人間ですら知られているような有名な人間は居るだろうか
戦国無双2をやるまでは、わたしは服部半蔵しか知らなかった
あれだけの大仕事をやってのけ、東照宮として祭られているほどの人物なのに
わたしは、それまで井伊家の有名な人間と言えば、桜田門外の変で暗殺された直弼しか知らなかった
直政を知らなかった
歴史に明るくなくても、それでも、三成さんは知っていた
その人物像はひどく歪められたものだとしても、それでも誰でも知っている三成さん
徳川は徹底的に、三成さんを悪人扱いし、家康を救世主として祭り上げた
それは、幕府離れした民衆の心を取り戻すために
だけど
歴史から抹殺された三成さんの汚名を払うかのように、民衆は『真田幸村』を生み出した
当時の三成さんは、禁じられているキリスト教と等しい存在にされていた
その鬱積を払うかのように、幸村が槍を持ち、家康を苦しめた
人は決して心から、家康を愛していたわけではない
その恩恵に従っただけなのだと知った時、家康は見かけだけ幸せで、中身は寂しい人だったんだと知った
関ヶ原から2年
家康の最愛の人、直政がこの世を去った
その悲しみを、自らの手で死に追い込んだ三成さんにぶつけた
「三成が直政を連れて行った」と思い込むことで、自分の気持ちを納得させようとしていた
人間の弱さゆえの行動
誰にでもある感情
理解できる
だけど、自分が愛し、庇護した井伊家によって、徳川幕府はその長い歴史に終止符を打たねばならなくなったのはなんと言う因縁だろうか
家康が破壊した石田家先祖代々の墓を再建したのは、彦根藩11代目藩主・直中だと言う
直政は、三成さんの最後を世話した人物である
通説では直政は三成さんを嫌っていたと言う
そんな人物のために、自分の主君が壊した墓を再建するだろうか
自分の先祖を呪い殺したとされる三成さんのための供養塔を建てるだろうか
もしかしたら
名僧・沢庵を魅了したように、直政もまた、三成さんの人柄に魅了された一人ではないだろうか
そんな気がした
駅に戻って、長浜城を入った
展示室は小さいけれど、見るものがたくさんあった
徳川家所縁の人間の展示物もあって、こんなところに人の器の違いが伺える
何故なら、和歌山城には豊臣所縁の人間の展示物は一つもないからだ
本当に、徳川って人間が小さい
中の展示の仕方などは大阪城の天守閣に似ている雰囲気がした
そんな展示物を眺めていて、愛すべきキャラクターを発見した

これ、長浜のキャラクターにならないだろうかと、心の底から思った・・・
ひこにゃんの可愛らしさには敵わないだろうが、三成人気の今、何をしても売れるような気がする
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