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敬愛する三成さんのイベントに行きました

8月の終わり、三成さんの生地である滋賀県長浜市石田町に行って参りました
三成さんは400年を経た今でも英雄らしく、深く愛されておりました
力尽き(持病持ちのため)、清水の舞台から綱なしバンジーをやるつもりで拾ったタクシーの運転手さんからも、三成さんの話をたくさん聴けました
その帰りに、折角来たのだからと彦根に途中下車し、そこで『佐和山一夜城祭り』があることを知り、最終日に近い土曜日に行って来ました
佐和山に行く前に、前回の彦根訪問の際に買えなかった『いしだみつにゃん』のグッズを、今回は日がある内に買わなくては!と、先に買いに行って来ました
彦根城周辺のキャッスルロードにある四番街スクエアには、三成さん・左近をキャラクターにしたグッズを置いている、綺麗な店があります
しかしわたしは、その店の存在を知らず、駅前に設置されていた観光案内所で聴いた花しょうぶ商店街の店に真っ直ぐ向かいました
この商店街には、ネットでも話題になっている「しょうぶ屋」と言う、戦国武将を金儲けの道具にしている店があります
遠いところまで歩いたのだから、ついでに覗いてみれば良かったと、帰宅した後思いました
それは兎も角として、花しょうぶ商店街にある小汚いグッズ店で買い物をして良かったと思えることがたくさんありました
この商店街には、今も左近を愛する人々が大勢居ます
その集まりを『彦根左近会』と呼びます
彦根は、元々は三成さんが統治していた佐和山の外れにあります
関ヶ原での敗戦後、三成さんが愛したこの土地は徳川家康によって穢されました
しかし、三成さんの遺志を継いだ井伊家が、家康(徳川)の手から守り抜いた土地でもあります
故に、関ヶ原後でも三成さんや左近を愛する人々を庇護していた場所でもあり、400年の今でもこの二人を英雄として崇めることができるのも、偏に井伊家のお陰ではないだろうかと思えるようになりました
その彦根左近会の御仁だと思えるご老人から、世間にあるサイトでは絶対に手に入れることのできない貴重な情報を頂きました
それが、題目にしている通りの、『直江兼続は石田三成の友達ではなかった』です
どうしてここに直江の『愛の前立て』があるのか?と尋ねました
やっぱり三成さんの友達だからか?と聴いたところ、そのご老人はキョトンとした顔で、「へ?」と、逆に訊き返されました
「直江兼続は、石田三成の友達じゃないよ?直江は左近の友達だったんだよ」
えぇぇぇぇ?!です
なんで?と訊き返したら、ご老人は「兼続は上杉家の軍師だから、同じ軍師同士仲が良かったんじゃないか?」とのこと
じゃぁ、三成さんとの関係は?と訊けば
「さぁ?」
と、首を傾げられました
『敗者から見た関ヶ原合戦』をある程度読んでみて(内容が濃いので、時間を掛けてゆっくり読んでいる最中です)、三成さんが兼続を信頼していたような感じには見受けられなかったので、ゲームやWikiに書かれていることは、実は出鱈目じゃないかとは思ってましたし、過去の記事にも『三成さんには宛にされてなかった兼続』と書きましたが、まさかそれが本当のことだったとは思いもしませんでした
つまり、三成さんにとって兼続は自分の家臣の友達であり、三成さんと兼続の縁は極めて薄く、長谷堂で兼続が最上軍相手に戦っていたのも三成さんのためではなく、単に上杉家のためであり、兼続が三成さんの応援で戦ったのではないような気がしました
寧ろその逆で、三成さんが関ヶ原で徳川軍を討ち滅ぼし、その進軍で長谷堂の上杉軍を応援する予定だったのではないかと
だから、西軍敗退の報せを受け、応援が来ないことを知った景勝は早々の撤退を決定したのではないかと
だから、毛利輝元が関ヶ原の責任を全て三成さんに押し付けたのと同じく、景勝も呼応を三成さんの責任になすり付けることで助命を得たのではないかと
縁が薄ければ、責任転嫁は気が楽でしょうから
そうなると、三成さんと最後まで行動を共にしていた宇喜多が清々しく感じました
ほんと、泳いで大坂まで来て欲しかったですわ
彦根で、語られることのなかった意外な真実を知った翌日、高熱に倒れたわたしは、現在も微熱続きで何もできません

8月の終わり、三成さんの生地である滋賀県長浜市石田町に行って参りました
三成さんは400年を経た今でも英雄らしく、深く愛されておりました
力尽き(持病持ちのため)、清水の舞台から綱なしバンジーをやるつもりで拾ったタクシーの運転手さんからも、三成さんの話をたくさん聴けました
その帰りに、折角来たのだからと彦根に途中下車し、そこで『佐和山一夜城祭り』があることを知り、最終日に近い土曜日に行って来ました
佐和山に行く前に、前回の彦根訪問の際に買えなかった『いしだみつにゃん』のグッズを、今回は日がある内に買わなくては!と、先に買いに行って来ました
彦根城周辺のキャッスルロードにある四番街スクエアには、三成さん・左近をキャラクターにしたグッズを置いている、綺麗な店があります
しかしわたしは、その店の存在を知らず、駅前に設置されていた観光案内所で聴いた花しょうぶ商店街の店に真っ直ぐ向かいました
この商店街には、ネットでも話題になっている「しょうぶ屋」と言う、戦国武将を金儲けの道具にしている店があります
遠いところまで歩いたのだから、ついでに覗いてみれば良かったと、帰宅した後思いました
それは兎も角として、花しょうぶ商店街にある小汚いグッズ店で買い物をして良かったと思えることがたくさんありました
この商店街には、今も左近を愛する人々が大勢居ます
その集まりを『彦根左近会』と呼びます
彦根は、元々は三成さんが統治していた佐和山の外れにあります
関ヶ原での敗戦後、三成さんが愛したこの土地は徳川家康によって穢されました
しかし、三成さんの遺志を継いだ井伊家が、家康(徳川)の手から守り抜いた土地でもあります
故に、関ヶ原後でも三成さんや左近を愛する人々を庇護していた場所でもあり、400年の今でもこの二人を英雄として崇めることができるのも、偏に井伊家のお陰ではないだろうかと思えるようになりました
その彦根左近会の御仁だと思えるご老人から、世間にあるサイトでは絶対に手に入れることのできない貴重な情報を頂きました
それが、題目にしている通りの、『直江兼続は石田三成の友達ではなかった』です
どうしてここに直江の『愛の前立て』があるのか?と尋ねました
やっぱり三成さんの友達だからか?と聴いたところ、そのご老人はキョトンとした顔で、「へ?」と、逆に訊き返されました
「直江兼続は、石田三成の友達じゃないよ?直江は左近の友達だったんだよ」
えぇぇぇぇ?!です
なんで?と訊き返したら、ご老人は「兼続は上杉家の軍師だから、同じ軍師同士仲が良かったんじゃないか?」とのこと
じゃぁ、三成さんとの関係は?と訊けば
「さぁ?」
と、首を傾げられました
『敗者から見た関ヶ原合戦』をある程度読んでみて(内容が濃いので、時間を掛けてゆっくり読んでいる最中です)、三成さんが兼続を信頼していたような感じには見受けられなかったので、ゲームやWikiに書かれていることは、実は出鱈目じゃないかとは思ってましたし、過去の記事にも『三成さんには宛にされてなかった兼続』と書きましたが、まさかそれが本当のことだったとは思いもしませんでした
つまり、三成さんにとって兼続は自分の家臣の友達であり、三成さんと兼続の縁は極めて薄く、長谷堂で兼続が最上軍相手に戦っていたのも三成さんのためではなく、単に上杉家のためであり、兼続が三成さんの応援で戦ったのではないような気がしました
寧ろその逆で、三成さんが関ヶ原で徳川軍を討ち滅ぼし、その進軍で長谷堂の上杉軍を応援する予定だったのではないかと
だから、西軍敗退の報せを受け、応援が来ないことを知った景勝は早々の撤退を決定したのではないかと
だから、毛利輝元が関ヶ原の責任を全て三成さんに押し付けたのと同じく、景勝も呼応を三成さんの責任になすり付けることで助命を得たのではないかと
縁が薄ければ、責任転嫁は気が楽でしょうから
そうなると、三成さんと最後まで行動を共にしていた宇喜多が清々しく感じました
ほんと、泳いで大坂まで来て欲しかったですわ
彦根で、語られることのなかった意外な真実を知った翌日、高熱に倒れたわたしは、現在も微熱続きで何もできません
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