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- The blog site of only an Sengoku Musou2 (Samurai Warriors 2). By Haruhi -
アマゾンで石田三成関連本を買いました
それが今日届いたので(アマゾン、早すぎ)、先ずは司馬遼太郎氏の『関ヶ原』から始めました
司馬作品では三成さんは随分男前に描かれてます
色白で切れ長の目で、目元が涼しい
全身に緊張感を漂わせた不思議な雰囲気を持つ人で、男も女も惹かれるような人物像になってます
40近くになっても童顔で、若い頃に召抱えられた島左近は三成さんを見て「秀吉の寵児か」と思っていた様子
その後で「秀吉に衆道の気はないし」と付け足されてたので、恐らくそっちの方の『寵児』と言う意味合いだったのだろう(事実は違うそうだけど)
しかし、三成さんが男前だったと言う記述を未だ嘗て見たことがないので、例え創作としてもちょっと嬉しい
この作品が世に出たのが昭和の時代
わたしが生まれる遥か昔のことで、今のように三成さんの研究も解明されていない時期だったのか、三成さんを扱ったウェブサイトで読み知りしたものと若干異なってました
例えば勝家と市さんが自害した賤ヶ岳の戦いの解説
加藤清正ら賤ヶ岳七本槍の次に三成さんが手柄を取ったと『関ヶ原』には書かれていたけど、実際はその逆だったことが近年の研究でわかって来たらしいですし、『関ヶ原』では秀吉の奥さん、おねさんと三成さんの仲が悪くて、三成さんは淀君派だったと書かれてます
が、これも最近の解明で三成さんはおねさん派であることが明らかになって来てます
先日書いた記事にもありますが、関ヶ原は『おね・三成』VS『淀・家康』であることから、この『関ヶ原』は歴史上に人物の名を使っただけの80%創作物であり事実とは異なるものだと言うことを頭に入れておかないと、『頭がおかしく』なります
で、実際読んで頭がおかしくなりそうになった辺りで、もう一冊買った『石田三成』から先に読もうと思ってます
こちらの発刊年が2006年なので、石田三成の研究解明もかなり進んだ時期のものなので、『関ヶ原』とは違う三成さんに逢えるのではないかと思い
NHK取材の『その時歴史が動いた』のコミックもでたらめばかりな内容で呆れたけど(武田信玄、真田昌幸、信繁親子、石田三成編で、正しく書かれたものがほとんどなかった。こんなひどいものを公然と売ってる出版社の気が知れない。買ったあたしはバカだ)
そして、調べてわかった誤りがあって、三成さんの奥さんと、真田とーちゃんの奥さんが姉妹と書かれていて、なんだか納得できない部分がありました
と言うのも、三成さんと信繁の年齢差が6〜7歳(信繁の生まれがはっきりしないため)
どんだけ年の離れた姉妹やねん。て話です
この疑問を解決してくれたのが、『石田三成』と言う本でした
真田とーちゃんの奥さんと三成さんの奥さんが姉妹なんじゃなくて、真田とーちゃんの娘が三成さんの奥さんの兄弟(宇田頼重)のとこに嫁いだってことでした
全く、信用できねーなぁ、『その時歴史が動いた』コミック版は
そんなこんなで、最近どっぷり殿に浸かっている毎日ですが、早く猛将伝をやりたいです
それが今日届いたので(アマゾン、早すぎ)、先ずは司馬遼太郎氏の『関ヶ原』から始めました
司馬作品では三成さんは随分男前に描かれてます
色白で切れ長の目で、目元が涼しい
全身に緊張感を漂わせた不思議な雰囲気を持つ人で、男も女も惹かれるような人物像になってます
40近くになっても童顔で、若い頃に召抱えられた島左近は三成さんを見て「秀吉の寵児か」と思っていた様子
その後で「秀吉に衆道の気はないし」と付け足されてたので、恐らくそっちの方の『寵児』と言う意味合いだったのだろう(事実は違うそうだけど)
しかし、三成さんが男前だったと言う記述を未だ嘗て見たことがないので、例え創作としてもちょっと嬉しい
この作品が世に出たのが昭和の時代
わたしが生まれる遥か昔のことで、今のように三成さんの研究も解明されていない時期だったのか、三成さんを扱ったウェブサイトで読み知りしたものと若干異なってました
例えば勝家と市さんが自害した賤ヶ岳の戦いの解説
加藤清正ら賤ヶ岳七本槍の次に三成さんが手柄を取ったと『関ヶ原』には書かれていたけど、実際はその逆だったことが近年の研究でわかって来たらしいですし、『関ヶ原』では秀吉の奥さん、おねさんと三成さんの仲が悪くて、三成さんは淀君派だったと書かれてます
が、これも最近の解明で三成さんはおねさん派であることが明らかになって来てます
先日書いた記事にもありますが、関ヶ原は『おね・三成』VS『淀・家康』であることから、この『関ヶ原』は歴史上に人物の名を使っただけの80%創作物であり事実とは異なるものだと言うことを頭に入れておかないと、『頭がおかしく』なります
で、実際読んで頭がおかしくなりそうになった辺りで、もう一冊買った『石田三成』から先に読もうと思ってます
こちらの発刊年が2006年なので、石田三成の研究解明もかなり進んだ時期のものなので、『関ヶ原』とは違う三成さんに逢えるのではないかと思い
NHK取材の『その時歴史が動いた』のコミックもでたらめばかりな内容で呆れたけど(武田信玄、真田昌幸、信繁親子、石田三成編で、正しく書かれたものがほとんどなかった。こんなひどいものを公然と売ってる出版社の気が知れない。買ったあたしはバカだ)
そして、調べてわかった誤りがあって、三成さんの奥さんと、真田とーちゃんの奥さんが姉妹と書かれていて、なんだか納得できない部分がありました
と言うのも、三成さんと信繁の年齢差が6〜7歳(信繁の生まれがはっきりしないため)
どんだけ年の離れた姉妹やねん。て話です
この疑問を解決してくれたのが、『石田三成』と言う本でした
真田とーちゃんの奥さんと三成さんの奥さんが姉妹なんじゃなくて、真田とーちゃんの娘が三成さんの奥さんの兄弟(宇田頼重)のとこに嫁いだってことでした
全く、信用できねーなぁ、『その時歴史が動いた』コミック版は
そんなこんなで、最近どっぷり殿に浸かっている毎日ですが、早く猛将伝をやりたいです
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最近殿ばっかりです
ゲームでも、無限城を殿でやってます
『虎乱2』を装備して、無双演舞に流れる殿のアニメ顔に悦ってます
早く猛将伝でナオ好きに戻りたい気持ちでいっぱいです
殿の好きなとこ

到底男とは思えない口唇とか

口唇とか

口唇とか

口唇と、輪郭
コーエーのゲームのキャラクターボイスにしては、殿の声はかっこいい
三国無双のおっさん’ずを除いて、若手武将も含めて、さっぱりな感じしかしないけど、殿の声はキャラクター(顔と言えば良いのか)と(は珍しく)合ってる
三国、戦国シリーズの中でも、殿の声が一番好きだなぁ
が、声優さんに興味はない
ちなみにOROCHIをやってると、趙雲と幸村くんの声の区別がつかない
ついでに言わせてもらうと、戦国無双2と戦国無双2 Empires、無双OROCHIの殿の声が同一人物には思えない
戦国無双2 猛将伝の殿の声が心配
戦国無双2の声が一番殿に合ってる
他は声が妙に高くなって、三成人気を意識してるのが見え見えで腹が立つ
関ヶ原の理由、「秀吉様の天下、必ず取り返してみせる」
そんな気概で臨んだことを勝手に思うのは殿信者だからです
ゲームでも、無限城を殿でやってます
『虎乱2』を装備して、無双演舞に流れる殿のアニメ顔に悦ってます
早く猛将伝でナオ好きに戻りたい気持ちでいっぱいです
殿の好きなとこ

到底男とは思えない口唇とか

口唇とか

口唇とか

口唇と、輪郭
後は

ベタな髪型
時々声(戦国無双2に限る)

ベタな髪型
時々声(戦国無双2に限る)
コーエーのゲームのキャラクターボイスにしては、殿の声はかっこいい
三国無双のおっさん’ずを除いて、若手武将も含めて、さっぱりな感じしかしないけど、殿の声はキャラクター(顔と言えば良いのか)と(は珍しく)合ってる
三国、戦国シリーズの中でも、殿の声が一番好きだなぁ
が、声優さんに興味はない
ちなみにOROCHIをやってると、趙雲と幸村くんの声の区別がつかない
ついでに言わせてもらうと、戦国無双2と戦国無双2 Empires、無双OROCHIの殿の声が同一人物には思えない
戦国無双2 猛将伝の殿の声が心配
戦国無双2の声が一番殿に合ってる
他は声が妙に高くなって、三成人気を意識してるのが見え見えで腹が立つ
関ヶ原の理由、「秀吉様の天下、必ず取り返してみせる」
そんな気概で臨んだことを勝手に思うのは殿信者だからです
幸村くんでプレイすると、殿はこのように誉めてくれます

殿がピンチの時に助けに行くと

なので、ナオを誉めてもらおうとがんばってると

殿のピンチを助けると

なんでだ
友達じゃないのか
友達のナオなのに、なんでそんなに愛想がないんだ
殿
これはえこひいきですか?

この格差はなんだ
納得行きません
長谷堂の遺恨がそんなに深かったのか、殿・・・・・・・・・
何を思ったのか、小早川秀秋を知りたいとWikiを検索したけど内容が短すぎてよくわからなかったので、一般サイトを開いてみました
ブログサイトにある程度のことは書かれていたけど、やはりブログサイトはここもそうだけど管理人の感想でしかないのでやっぱりわからないままの人でした
そのブログサイトのコメントに他の人が三成のことを書いてました
やっぱり悪く書かれてましたねー・・・
すっかり殿信者になってしまったわたしには、ちょっとつらい書かれ方でした
ただ、井伊直政をWikiで読んで知ったことですが、三成が斬首された後の佐和山を任された直政は、三成が善政を敷いていたので領民から慕われていたため、領民から反発を食らわないために三成のやり方をそのまま残したそうです
しかも、領民が三成を弔うことも咎めなかったそうです
今と違ってこの時代って、領主の顔を知ってる領民は一体、どれだけいたんだろう
領主と言うことは、現代では知事に当るのかな?
その辺がわからないけど、今の時代だって一般人が簡単に会える相手じゃないことは確かで、なのに三成を慕う人は多いみたいです
わたしは大阪に住んでるから、知事は大田さん(漢字すら『大田』か『太田』かすらわからない)だったかな?
下の名前は房江さんだ(これも漢字が合ってるかどうかわかってない)
自分が住んでる大阪の知事すらよく知らないのに、大阪市長なんてもっとわかんない
もっと掘り下げたら、区長が誰かなんて関心すらない
メディアも発達してるし、ネットだってやってる
だけど、わたしは知事以下の人達を知らないし、誰がどうなろうが知ったこっちゃない
乾いた時代だからとは、言い訳はしない
なのに、三成は領民から愛され、死を惜しまれ、三成出生地の周りにはゆかりの史跡がたくさんある
三成が育てた佐和山城も、直政によって取り壊された
それでも今尚その場所は『佐和山城』として名が残されている
外見は立派な作りだが、(『要塞』としての役目を負うため、そのように建てられたそうだ)中身は粗末な作りだったとも言われている
関ヶ原決戦後、この佐和山城を落とし入城した誰だったか忘れたけど、「さぞや立派な装飾品で埋め尽くされているのだろう」と思ったら、土壁の部屋ばかりで、城にあった大事なものは三成が秀吉からもらった手紙一枚だけだったというエピソードもあります
(佐和山城をぶっ潰した直政も、関ヶ原の2年後に死んでます
佐和山城を攻撃した小早川も直政と同じ年に死んでます
ごめんなさい
「ザマーミロ」な気分になりましたわ・・)
なので、他のサイトで「三成はこんなヤツだった」と悪く書かれてても、それを否定したい気持ちがあるんですね
決して、戦国無双2の殿に絆されたわけじゃありません
史実の三成も、とっても気になりますもの
現に『ナオ好き』だけど史実の直江兼続には興味ありませんし(はっきり書きすぎ
『戦国自衛隊』に小早川が出てたということで、しかも有名な俳優さんが演じてたらしいけど、『戦国自衛隊』は地上波で見たけど全然記憶にない
覚えてると言えば、主役3人を除いて北原一樹さん?(名前あやふや)しか覚えてなくて、おかしぃなぁと検索したらテレビドラマの方だった
見てないもん
覚えてたら逆に怖いわ
こちらのドラマでは石田三成を竹中直人さんが演じていた
殿
寧ろこっちの方が納得行きません
(竹中さんはどうしても『秀吉』のイメージが強いので)
小早川を人気のある俳優さん(名前忘れた・・)がやったことで、見た人の間では小早川同情票が集まったけど、石田三成を竹中直人じゃなくて高橋克典(42)辺りがやってたら、絶対石田三成の方が同情票高いと思う
配役ミスか、初めから石田三成の印象を悪くさせようというのか、見てないからどんな人に描かれてたのか全くわかんないけど、いい人に描かれてないのはなんとなく想像できる
だって竹中さん、悪人面だもの・・・

殿がピンチの時に助けに行くと

なので、ナオを誉めてもらおうとがんばってると

殿のピンチを助けると

なんでだ
友達じゃないのか
友達のナオなのに、なんでそんなに愛想がないんだ
殿
これはえこひいきですか?

この格差はなんだ
納得行きません
長谷堂の遺恨がそんなに深かったのか、殿・・・・・・・・・
何を思ったのか、小早川秀秋を知りたいとWikiを検索したけど内容が短すぎてよくわからなかったので、一般サイトを開いてみました
ブログサイトにある程度のことは書かれていたけど、やはりブログサイトはここもそうだけど管理人の感想でしかないのでやっぱりわからないままの人でした
そのブログサイトのコメントに他の人が三成のことを書いてました
やっぱり悪く書かれてましたねー・・・
すっかり殿信者になってしまったわたしには、ちょっとつらい書かれ方でした
ただ、井伊直政をWikiで読んで知ったことですが、三成が斬首された後の佐和山を任された直政は、三成が善政を敷いていたので領民から慕われていたため、領民から反発を食らわないために三成のやり方をそのまま残したそうです
しかも、領民が三成を弔うことも咎めなかったそうです
今と違ってこの時代って、領主の顔を知ってる領民は一体、どれだけいたんだろう
領主と言うことは、現代では知事に当るのかな?
その辺がわからないけど、今の時代だって一般人が簡単に会える相手じゃないことは確かで、なのに三成を慕う人は多いみたいです
わたしは大阪に住んでるから、知事は大田さん(漢字すら『大田』か『太田』かすらわからない)だったかな?
下の名前は房江さんだ(これも漢字が合ってるかどうかわかってない)
自分が住んでる大阪の知事すらよく知らないのに、大阪市長なんてもっとわかんない
もっと掘り下げたら、区長が誰かなんて関心すらない
メディアも発達してるし、ネットだってやってる
だけど、わたしは知事以下の人達を知らないし、誰がどうなろうが知ったこっちゃない
乾いた時代だからとは、言い訳はしない
なのに、三成は領民から愛され、死を惜しまれ、三成出生地の周りにはゆかりの史跡がたくさんある
三成が育てた佐和山城も、直政によって取り壊された
それでも今尚その場所は『佐和山城』として名が残されている
外見は立派な作りだが、(『要塞』としての役目を負うため、そのように建てられたそうだ)中身は粗末な作りだったとも言われている
関ヶ原決戦後、この佐和山城を落とし入城した誰だったか忘れたけど、「さぞや立派な装飾品で埋め尽くされているのだろう」と思ったら、土壁の部屋ばかりで、城にあった大事なものは三成が秀吉からもらった手紙一枚だけだったというエピソードもあります
(佐和山城をぶっ潰した直政も、関ヶ原の2年後に死んでます
佐和山城を攻撃した小早川も直政と同じ年に死んでます
ごめんなさい
「ザマーミロ」な気分になりましたわ・・)
なので、他のサイトで「三成はこんなヤツだった」と悪く書かれてても、それを否定したい気持ちがあるんですね
決して、戦国無双2の殿に絆されたわけじゃありません
史実の三成も、とっても気になりますもの
現に『ナオ好き』だけど史実の直江兼続には興味ありませんし(はっきり書きすぎ
『戦国自衛隊』に小早川が出てたということで、しかも有名な俳優さんが演じてたらしいけど、『戦国自衛隊』は地上波で見たけど全然記憶にない
覚えてると言えば、主役3人を除いて北原一樹さん?(名前あやふや)しか覚えてなくて、おかしぃなぁと検索したらテレビドラマの方だった
見てないもん
覚えてたら逆に怖いわ
こちらのドラマでは石田三成を竹中直人さんが演じていた
殿
寧ろこっちの方が納得行きません
(竹中さんはどうしても『秀吉』のイメージが強いので)
小早川を人気のある俳優さん(名前忘れた・・)がやったことで、見た人の間では小早川同情票が集まったけど、石田三成を竹中直人じゃなくて高橋克典(42)辺りがやってたら、絶対石田三成の方が同情票高いと思う
配役ミスか、初めから石田三成の印象を悪くさせようというのか、見てないからどんな人に描かれてたのか全くわかんないけど、いい人に描かれてないのはなんとなく想像できる
だって竹中さん、悪人面だもの・・・
NHKで放送されている「その時歴史が動いた」に石田三成を扱ったものがあった
放送されたのは2005年なので、見ることはできない
DVDはないかと探したが、代わりにコミックで発刊されていた
嬉しくなって早速注文した
3日後には届いた
だけど、内容は三成専門サイトで検証されていたものとは全く違っていた
石田三成のイメージアップどころか、逆にイメージダウンになるようなことばかりが書かれていた
どうなってんだ
タイトルは『徳川家康が最も恐れた男・敗者 石田三成』
徳川家康は元々臆病者なので、当時のほとんどの武将を恐れてたんじゃないかと思う
「徳川家康が最も恐れた男」で検索すると、上杉景勝、直江兼続、真田昌幸、真田幸村の名前がヒットした
怖がってる人間がどんだけおんねん、て話し
多すぎやろ、普通に
内容は、救いようのないものだった
NHKでは「石田三成は近江の豪族の息子」とある
三成専門サイトでは「土豪の息子で、しかも貧乏だから口減らしで寺に預けられていた」らしい
姉川の戦いの時、NHKは「三成11歳」と書いてるけど、これは数え年なのだろうか
三成は1560年生まれなので、今で数えれば10歳なのだけど
一般的な、三成が秀吉に仕官した年齢は14歳
NHK本では18歳(恐らく数え年)で仕官したとされていた
しかも、自分から仕官を願い出たと書かれているけど、当時は自分で主君を自由に選べるような時代だったのだろうか
そんな武将、後にも先にも有名なとこでは前田慶次くらいしか思い浮かばないのだけど(足軽じゃあるまいし)
大抵は高額の石高で召抱えられるか、子供の頃にスカウトされるかのどっちかが大半
しかも、「憧れの秀吉に自分から仕官を願い出た(NHK書籍)」三成の力量もわからないうちに、秀吉は300石の知行(給料・三成にとっては初任給)を与えている
(これには200石とも400石とも言われており、一般には400石が主流で伝わっている)
なにかおかしい
金の使い方は上手かった秀吉が、そんな豪気なことをするだろうか
どこの馬の骨とも知れぬ三成に
しかも17〜8の小僧に
相手の力量を知ってから、知行は与えられるものじゃないのか
その初任給で三成は、渡辺勘兵衛を召し抱えている
仕官したばかりの人間が、秀吉や柴田勝家が欲しがっていた勘兵衛を、増してや主君である秀吉を差し置いて召し抱えられるだろうか
少なくとも、何年かの付き合いがなければ、「憧れていた」ほどの秀吉を差し置いて、こんな大胆なことはできないはずだ
しかも秀吉は、NHKの書籍通りだとすれば新参者の三成に、欲しかった人材を横取りされたことになる
なのに秀吉は怒るどころか、三成の行動を誉めている
これは、相当の年数が経った間柄じゃなきゃ、作り話としか思えない内容である
コーエーが専門家(歴史研究家)を雇ってゲーム構成に使われた資料によると、三成は子供の頃から秀吉、おねと共に大坂で暮らしていたそうだ
(実際秀吉はほとんどの時間を伏見城で過ごしており、三成も京都に屋敷があった)
子供の頃から世話になっているのなら、秀吉が欲しがっていた勘兵衛を召抱え、秀吉にそれを誉められるのも納得できる
気心は知れているだろうから
名前にしても、そうだ
当時は15歳の元服を迎えると、家族が付けた幼名を改名する慣わしがある
三成の幼名は佐吉
そこから『三也』に名を変えている(後に『三成』と改める)
秀吉に仕官する前は寺に居た三成が、こんな武家風の名前を付けるだろうか
三成が寺を出たとして、秀吉に仕えるまでどこで何をしていたのかが不鮮明すぎて、寧ろ『寺で小姓をしていた三成の才覚を見抜いた秀吉が連れ帰った』と言う説の方が説得力がある
ちなみに、三成が預けられていた寺の名前は『観音寺』
三成の実家の近所にある(約1.6km)
秀吉が信長の後継者を勝家と争った『賤ヶ岳の戦い』
NHKは「三成は先懸衆の中に名を連ねたが、臆病風に吹かれ手柄は立てられなかった」と書かれている
しかし、史書である一柳家記では「天正11年(1583年)、秀吉が織田氏筆頭家老である柴田勝家と対立した賤ヶ岳の戦いに従軍し、柴田軍の動向を探る偵察行動や、先駈衆として一番槍の功名をあげた」(Wikiに記載されているものを引用のまま)とあるそうだ
それを裏付けるものとしては、あの加藤清正が賤ヶ岳の戦いでの手柄として与えられた『賤ヶ岳7本槍』の話題を降られることが大嫌いだったそうだ
つまり、手柄を称える武勲はもらったが、実際は三成の方が先に手柄を取ってるから、それを思い出してしまって腹が立つから話題にしたくないってことじゃないだろうか
これだけ立証されたものがありながら、NHKのコミック版は尚も三成を侮辱している
NHK書籍「その後も三成が戦場で槍働きをすることはなかった」
三成は元々戦働き専門ではなく、補給物資の確保やそれ以外の裏方の仕事に回っていることが主だったので、槍働きをしてる場合じゃない
しかも、戦場に立っては他の武将にも負けないくらいの活躍はしている
ほぼ文武両道だったにも関わらず、随分な扱いを受けている印象が拭えない
裏方仕事専門であったなら、渡辺勘兵衛や島左近を召抱える必要は全くないことになる
三成が、自分には必要のない人材に自分の石高の半分以上を注ぎ込むほどバカな人間だとは思えないからだ
NHKでは『武功こそ立身出世の条件であった戦国時代に三成の戦下手はみじめなものだった』(原文のまま)と書かれている
戦下手とは、小田原攻略の際の『忍城陥落』を言っているのだろうか
だとしたら、とんだ誤解である
忍城が落とせなかったのは三成の責任ではなく、秀吉の傲慢さから来た結果だとどこのサイトにも大抵書かれている
忍城を水攻めで落とそうとしたのは秀吉であり、理由として水攻めには膨大な金が掛かるため、自分の経済力を見せ付けるために敢えて敢行したと、秀吉と三成との手紙のやり取りの中に伺える
三成が「忍城は水攻めには不向きですよ?」と書いているのに対し秀吉は、「良いからそのままやっちゃって」と返事をしている
(だいたいこんな感じのやり取りなので、100%正しくはない)
その後、「一応水攻めの準備はしましたけど、こちらの武将(三成の臣下以外)、誰も城攻めに動いてくんないんですけど?」と、手紙でぼやいている三成が居る
秀吉のわがままを聞くために無駄とわかっていながら、せっせと準備していた三成
可愛いじゃないですか
その後、秀吉は九州筑前・筑後の大名の席を与えると言っているが、それを断った
理由は、自分が九州の大名になったら、大坂で執務を司る人間が居なくなるから
と、NHK本では書かれているが、実際三成は1587年の九州征伐に参加し、博多奉行となり、博多を復興させた
その前に堺奉行にも任命されてるし、九州には加藤清正が居る
1585年には肥後半国と讃岐とどちらかを選べと言われ、肥後を選んだという逸話がある清正をそっちのけて、三成に筑前と筑後をやろうなんて話、どう考えたって辻褄が合わないのだけど
どうなってんの、NHK
また、権力を確たるものにしようと画策する家康が頻繁に行なった大名との縁組
これを三成が勝手にできないよう議会で決めたとしているNHK本だが、史実ではこれを固く禁止したのは秀吉で、その秀吉に死後、勝手に縁組を頻繁に行なった家康に激怒した三成が、利家と共に「これ以上勝手なことすんな」と止めたのだ
(「秀吉の死去により、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。家康は覇権奪取のため、三成と敵対関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと縁戚関係を豊臣氏に無断で次々と結んでゆく。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を、秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反するとして、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康も、豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した」Wikiより引用)
Wikiに書かれてること全てが正しいわけじゃないけど、NHK本よりかは正しいと思う
その後、三成の屋敷を加藤清正らが襲撃する
その三成を助けたのが家康だと書かれているが、実際三成のピンチを救ったのは佐竹義宣
家康は清正らを呼び出し「っめ!」って叱っただけである
結局、三成はこの一件で政治舞台から身を引かねばならなくなったのはNHKの書いてる通りだけど、最後までこの内容のどこに家康が三成を恐れたのか全く書かれていない
三成は、義に厚い
最後まで秀吉に尽くした
その義の重みは直江兼続や、真田幸村とは比べ物にならないくらいにさえ感じる
なのに、NHK本でこんなに軽く扱われているなんて
しかも、天下の国営放送が、某パクリゲーム同様江戸中期に悪意あって改竄された三成像をそのままマンガにしてしまっているのが嘆かわしい
こんなとこにお金払ってるみなさん、偉いね
あたしは払ってないよ
衆道の仲とまで噂された大谷とのやり取りも、ものすごく他人行儀
「お前が総大将じゃ他の武将が反目するから、お前は引っ込んで、毛利を総大将にしとけ、バカ」
とまではっきり言っちゃう大谷が、昨日今日逢ったばかりの人間に対する接し方に描かれてるのが、ものすごい残念
他にも書きたいことはたくさんあるけど、なんか疲れたので後日改めて
こうゆうブログサイトは大抵、管理人の独り言日記なので、気にしてはいけない
放送されたのは2005年なので、見ることはできない
DVDはないかと探したが、代わりにコミックで発刊されていた
嬉しくなって早速注文した
3日後には届いた
だけど、内容は三成専門サイトで検証されていたものとは全く違っていた
石田三成のイメージアップどころか、逆にイメージダウンになるようなことばかりが書かれていた
どうなってんだ
タイトルは『徳川家康が最も恐れた男・敗者 石田三成』
徳川家康は元々臆病者なので、当時のほとんどの武将を恐れてたんじゃないかと思う
「徳川家康が最も恐れた男」で検索すると、上杉景勝、直江兼続、真田昌幸、真田幸村の名前がヒットした
怖がってる人間がどんだけおんねん、て話し
多すぎやろ、普通に
内容は、救いようのないものだった
NHKでは「石田三成は近江の豪族の息子」とある
三成専門サイトでは「土豪の息子で、しかも貧乏だから口減らしで寺に預けられていた」らしい
姉川の戦いの時、NHKは「三成11歳」と書いてるけど、これは数え年なのだろうか
三成は1560年生まれなので、今で数えれば10歳なのだけど
一般的な、三成が秀吉に仕官した年齢は14歳
NHK本では18歳(恐らく数え年)で仕官したとされていた
しかも、自分から仕官を願い出たと書かれているけど、当時は自分で主君を自由に選べるような時代だったのだろうか
そんな武将、後にも先にも有名なとこでは前田慶次くらいしか思い浮かばないのだけど(足軽じゃあるまいし)
大抵は高額の石高で召抱えられるか、子供の頃にスカウトされるかのどっちかが大半
しかも、「憧れの秀吉に自分から仕官を願い出た(NHK書籍)」三成の力量もわからないうちに、秀吉は300石の知行(給料・三成にとっては初任給)を与えている
(これには200石とも400石とも言われており、一般には400石が主流で伝わっている)
なにかおかしい
金の使い方は上手かった秀吉が、そんな豪気なことをするだろうか
どこの馬の骨とも知れぬ三成に
しかも17〜8の小僧に
相手の力量を知ってから、知行は与えられるものじゃないのか
その初任給で三成は、渡辺勘兵衛を召し抱えている
仕官したばかりの人間が、秀吉や柴田勝家が欲しがっていた勘兵衛を、増してや主君である秀吉を差し置いて召し抱えられるだろうか
少なくとも、何年かの付き合いがなければ、「憧れていた」ほどの秀吉を差し置いて、こんな大胆なことはできないはずだ
しかも秀吉は、NHKの書籍通りだとすれば新参者の三成に、欲しかった人材を横取りされたことになる
なのに秀吉は怒るどころか、三成の行動を誉めている
これは、相当の年数が経った間柄じゃなきゃ、作り話としか思えない内容である
コーエーが専門家(歴史研究家)を雇ってゲーム構成に使われた資料によると、三成は子供の頃から秀吉、おねと共に大坂で暮らしていたそうだ
(実際秀吉はほとんどの時間を伏見城で過ごしており、三成も京都に屋敷があった)
子供の頃から世話になっているのなら、秀吉が欲しがっていた勘兵衛を召抱え、秀吉にそれを誉められるのも納得できる
気心は知れているだろうから
名前にしても、そうだ
当時は15歳の元服を迎えると、家族が付けた幼名を改名する慣わしがある
三成の幼名は佐吉
そこから『三也』に名を変えている(後に『三成』と改める)
秀吉に仕官する前は寺に居た三成が、こんな武家風の名前を付けるだろうか
三成が寺を出たとして、秀吉に仕えるまでどこで何をしていたのかが不鮮明すぎて、寧ろ『寺で小姓をしていた三成の才覚を見抜いた秀吉が連れ帰った』と言う説の方が説得力がある
ちなみに、三成が預けられていた寺の名前は『観音寺』
三成の実家の近所にある(約1.6km)
秀吉が信長の後継者を勝家と争った『賤ヶ岳の戦い』
NHKは「三成は先懸衆の中に名を連ねたが、臆病風に吹かれ手柄は立てられなかった」と書かれている
しかし、史書である一柳家記では「天正11年(1583年)、秀吉が織田氏筆頭家老である柴田勝家と対立した賤ヶ岳の戦いに従軍し、柴田軍の動向を探る偵察行動や、先駈衆として一番槍の功名をあげた」(Wikiに記載されているものを引用のまま)とあるそうだ
それを裏付けるものとしては、あの加藤清正が賤ヶ岳の戦いでの手柄として与えられた『賤ヶ岳7本槍』の話題を降られることが大嫌いだったそうだ
つまり、手柄を称える武勲はもらったが、実際は三成の方が先に手柄を取ってるから、それを思い出してしまって腹が立つから話題にしたくないってことじゃないだろうか
これだけ立証されたものがありながら、NHKのコミック版は尚も三成を侮辱している
NHK書籍「その後も三成が戦場で槍働きをすることはなかった」
三成は元々戦働き専門ではなく、補給物資の確保やそれ以外の裏方の仕事に回っていることが主だったので、槍働きをしてる場合じゃない
しかも、戦場に立っては他の武将にも負けないくらいの活躍はしている
ほぼ文武両道だったにも関わらず、随分な扱いを受けている印象が拭えない
裏方仕事専門であったなら、渡辺勘兵衛や島左近を召抱える必要は全くないことになる
三成が、自分には必要のない人材に自分の石高の半分以上を注ぎ込むほどバカな人間だとは思えないからだ
NHKでは『武功こそ立身出世の条件であった戦国時代に三成の戦下手はみじめなものだった』(原文のまま)と書かれている
戦下手とは、小田原攻略の際の『忍城陥落』を言っているのだろうか
だとしたら、とんだ誤解である
忍城が落とせなかったのは三成の責任ではなく、秀吉の傲慢さから来た結果だとどこのサイトにも大抵書かれている
忍城を水攻めで落とそうとしたのは秀吉であり、理由として水攻めには膨大な金が掛かるため、自分の経済力を見せ付けるために敢えて敢行したと、秀吉と三成との手紙のやり取りの中に伺える
三成が「忍城は水攻めには不向きですよ?」と書いているのに対し秀吉は、「良いからそのままやっちゃって」と返事をしている
(だいたいこんな感じのやり取りなので、100%正しくはない)
その後、「一応水攻めの準備はしましたけど、こちらの武将(三成の臣下以外)、誰も城攻めに動いてくんないんですけど?」と、手紙でぼやいている三成が居る
秀吉のわがままを聞くために無駄とわかっていながら、せっせと準備していた三成
可愛いじゃないですか
その後、秀吉は九州筑前・筑後の大名の席を与えると言っているが、それを断った
理由は、自分が九州の大名になったら、大坂で執務を司る人間が居なくなるから
と、NHK本では書かれているが、実際三成は1587年の九州征伐に参加し、博多奉行となり、博多を復興させた
その前に堺奉行にも任命されてるし、九州には加藤清正が居る
1585年には肥後半国と讃岐とどちらかを選べと言われ、肥後を選んだという逸話がある清正をそっちのけて、三成に筑前と筑後をやろうなんて話、どう考えたって辻褄が合わないのだけど
どうなってんの、NHK
また、権力を確たるものにしようと画策する家康が頻繁に行なった大名との縁組
これを三成が勝手にできないよう議会で決めたとしているNHK本だが、史実ではこれを固く禁止したのは秀吉で、その秀吉に死後、勝手に縁組を頻繁に行なった家康に激怒した三成が、利家と共に「これ以上勝手なことすんな」と止めたのだ
(「秀吉の死去により、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。家康は覇権奪取のため、三成と敵対関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと縁戚関係を豊臣氏に無断で次々と結んでゆく。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を、秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反するとして、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康も、豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した」Wikiより引用)
Wikiに書かれてること全てが正しいわけじゃないけど、NHK本よりかは正しいと思う
その後、三成の屋敷を加藤清正らが襲撃する
その三成を助けたのが家康だと書かれているが、実際三成のピンチを救ったのは佐竹義宣
家康は清正らを呼び出し「っめ!」って叱っただけである
結局、三成はこの一件で政治舞台から身を引かねばならなくなったのはNHKの書いてる通りだけど、最後までこの内容のどこに家康が三成を恐れたのか全く書かれていない
三成は、義に厚い
最後まで秀吉に尽くした
その義の重みは直江兼続や、真田幸村とは比べ物にならないくらいにさえ感じる
なのに、NHK本でこんなに軽く扱われているなんて
しかも、天下の国営放送が、某パクリゲーム同様江戸中期に悪意あって改竄された三成像をそのままマンガにしてしまっているのが嘆かわしい
こんなとこにお金払ってるみなさん、偉いね
あたしは払ってないよ
衆道の仲とまで噂された大谷とのやり取りも、ものすごく他人行儀
「お前が総大将じゃ他の武将が反目するから、お前は引っ込んで、毛利を総大将にしとけ、バカ」
とまではっきり言っちゃう大谷が、昨日今日逢ったばかりの人間に対する接し方に描かれてるのが、ものすごい残念
他にも書きたいことはたくさんあるけど、なんか疲れたので後日改めて
こうゆうブログサイトは大抵、管理人の独り言日記なので、気にしてはいけない
ナオを出したかったので、新データで幸村くんをやり込みました
幸村くんは殿との絡みが多いので、殿ラブ(変な意味ではなく)なわたしには嬉しいシナリオです
謙信が少年の頃の兼続をどうにか・・・と言うサイトが検索しているとボロボロ出て来て、ゲームの中の二人もそんな風に見えてしまって、「兼続」「謙信公」のやり取り(やりこみデータで)も「あぁ・・・、兼続・・・」「謙信様ぁぁ・・・」
なんて、聴こえないのが不思議なくらい
色気ねーもん、あの二人(特にナオに色気を感じない)
増してや謙信に男色の趣味はなかったそうだし、やっぱり半分は創造だろうと思い始めた
寧ろ最近は新データのお陰で「殿と幸村くんがアヤシイ・・・」などと邪まなことが浮かぶようになってしまい、困ってます
いや、マジで
殿のセリフ(というか、、口調?)が、艶っぽいのだよ(汗
例えば、幸村くん(PC)が敵将を倒したら出て来る、殿の「誉め」のセリフ
殿:「さすがだ・・・。幸村・・・」
すっげぇ切なそうな声出すのよ、殿が
なんでかわかんないけど、切ない声なの
手柄立てたのに、なんでそんな切なげな声出すの??って、首ひねるくらい
それを少しライトにしたのが左近への誉めで、こちらは
殿:「頼りにしている・・・。左近・・・」
こっちも少し切なげな声なんだけどね、幸村くんの時に比べたら淡白なんだよね
殿(NPC)が苦戦してる時に(幸村くんで)救助に行ったら
殿:「すまぬ・・・。来てくれて、感謝している・・・」
って、こっちも切なげな声出すんだよね・・・
いいムードになるのかしらと見守ってると、その後でムービーが流れて
殿:「見ていられなかった」
とか、冷めた声出すから、興醒めだよ
左近で助けに行っても、出て来るセリフも口調も普通なのに
なんでだ
ムダに色っぽいよ、殿(声が)
お陰で、幸村くんをプレイしてると妙に照れてしまうようになった
禁断の園に踏み込んだような感じ?
幸村くんは上杉にも豊臣にも人質として差し出されていた時期があったので(人質として、転々とされていたらしい)、兼続や三成とも面識はあっただろうけど、ゲームの方ではやっぱり関ヶ原、その後の大坂の陣(夏・冬)を主軸にされているからか、関ヶ原での主役・殿と幸村くんとの絡みが多いのだよ・・
多分の見解だけど、兼続との出会いはあまりにも幼いがゆえにほとんど記憶にはなくて、多少は大きくなった頃に人質になってた時期に出逢った三成との関係が濃密に描かれているのだろうか
史実での二人の関係もどんなものであったのか知りたいのだけど、何をどうすれば知ることができるのか、わたしには知る由もなかった

全くどうでもいい話を書いて自己嫌悪に落ちそうだけど、
殿は寺に預けられていたから、男色のことも勉強させられてたんだろうか・・・
殿の衣装が三国無双4のりっくん(ヘソ出しコスチューム)と交換になったら、別の意味で乱れまくった戦国乱世を簡単に想像できた(汗
殿!
それは悩殺ポーズでございますっ!(妄想
幸村くんは殿との絡みが多いので、殿ラブ(変な意味ではなく)なわたしには嬉しいシナリオです
謙信が少年の頃の兼続をどうにか・・・と言うサイトが検索しているとボロボロ出て来て、ゲームの中の二人もそんな風に見えてしまって、「兼続」「謙信公」のやり取り(やりこみデータで)も「あぁ・・・、兼続・・・」「謙信様ぁぁ・・・」
なんて、聴こえないのが不思議なくらい
色気ねーもん、あの二人(特にナオに色気を感じない)
増してや謙信に男色の趣味はなかったそうだし、やっぱり半分は創造だろうと思い始めた
寧ろ最近は新データのお陰で「殿と幸村くんがアヤシイ・・・」などと邪まなことが浮かぶようになってしまい、困ってます
いや、マジで
殿のセリフ(というか、、口調?)が、艶っぽいのだよ(汗
例えば、幸村くん(PC)が敵将を倒したら出て来る、殿の「誉め」のセリフ
殿:「さすがだ・・・。幸村・・・」
すっげぇ切なそうな声出すのよ、殿が
なんでかわかんないけど、切ない声なの
手柄立てたのに、なんでそんな切なげな声出すの??って、首ひねるくらい
それを少しライトにしたのが左近への誉めで、こちらは
殿:「頼りにしている・・・。左近・・・」
こっちも少し切なげな声なんだけどね、幸村くんの時に比べたら淡白なんだよね
殿(NPC)が苦戦してる時に(幸村くんで)救助に行ったら
殿:「すまぬ・・・。来てくれて、感謝している・・・」
って、こっちも切なげな声出すんだよね・・・
いいムードになるのかしらと見守ってると、その後でムービーが流れて
殿:「見ていられなかった」
とか、冷めた声出すから、興醒めだよ
左近で助けに行っても、出て来るセリフも口調も普通なのに
なんでだ
ムダに色っぽいよ、殿(声が)
お陰で、幸村くんをプレイしてると妙に照れてしまうようになった
禁断の園に踏み込んだような感じ?
幸村くんは上杉にも豊臣にも人質として差し出されていた時期があったので(人質として、転々とされていたらしい)、兼続や三成とも面識はあっただろうけど、ゲームの方ではやっぱり関ヶ原、その後の大坂の陣(夏・冬)を主軸にされているからか、関ヶ原での主役・殿と幸村くんとの絡みが多いのだよ・・
多分の見解だけど、兼続との出会いはあまりにも幼いがゆえにほとんど記憶にはなくて、多少は大きくなった頃に人質になってた時期に出逢った三成との関係が濃密に描かれているのだろうか
史実での二人の関係もどんなものであったのか知りたいのだけど、何をどうすれば知ることができるのか、わたしには知る由もなかった

全くどうでもいい話を書いて自己嫌悪に落ちそうだけど、
殿は寺に預けられていたから、男色のことも勉強させられてたんだろうか・・・
殿の衣装が三国無双4のりっくん(ヘソ出しコスチューム)と交換になったら、別の意味で乱れまくった戦国乱世を簡単に想像できた(汗
殿!
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