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- The blog site of only an Sengoku Musou2 (Samurai Warriors 2). By Haruhi -
NHKで放送されている「その時歴史が動いた」に石田三成を扱ったものがあった
放送されたのは2005年なので、見ることはできない
DVDはないかと探したが、代わりにコミックで発刊されていた
嬉しくなって早速注文した
3日後には届いた
だけど、内容は三成専門サイトで検証されていたものとは全く違っていた
石田三成のイメージアップどころか、逆にイメージダウンになるようなことばかりが書かれていた
どうなってんだ
タイトルは『徳川家康が最も恐れた男・敗者 石田三成』
徳川家康は元々臆病者なので、当時のほとんどの武将を恐れてたんじゃないかと思う
「徳川家康が最も恐れた男」で検索すると、上杉景勝、直江兼続、真田昌幸、真田幸村の名前がヒットした
怖がってる人間がどんだけおんねん、て話し
多すぎやろ、普通に
内容は、救いようのないものだった
NHKでは「石田三成は近江の豪族の息子」とある
三成専門サイトでは「土豪の息子で、しかも貧乏だから口減らしで寺に預けられていた」らしい
姉川の戦いの時、NHKは「三成11歳」と書いてるけど、これは数え年なのだろうか
三成は1560年生まれなので、今で数えれば10歳なのだけど
一般的な、三成が秀吉に仕官した年齢は14歳
NHK本では18歳(恐らく数え年)で仕官したとされていた
しかも、自分から仕官を願い出たと書かれているけど、当時は自分で主君を自由に選べるような時代だったのだろうか
そんな武将、後にも先にも有名なとこでは前田慶次くらいしか思い浮かばないのだけど(足軽じゃあるまいし)
大抵は高額の石高で召抱えられるか、子供の頃にスカウトされるかのどっちかが大半
しかも、「憧れの秀吉に自分から仕官を願い出た(NHK書籍)」三成の力量もわからないうちに、秀吉は300石の知行(給料・三成にとっては初任給)を与えている
(これには200石とも400石とも言われており、一般には400石が主流で伝わっている)
なにかおかしい
金の使い方は上手かった秀吉が、そんな豪気なことをするだろうか
どこの馬の骨とも知れぬ三成に
しかも17〜8の小僧に
相手の力量を知ってから、知行は与えられるものじゃないのか
その初任給で三成は、渡辺勘兵衛を召し抱えている
仕官したばかりの人間が、秀吉や柴田勝家が欲しがっていた勘兵衛を、増してや主君である秀吉を差し置いて召し抱えられるだろうか
少なくとも、何年かの付き合いがなければ、「憧れていた」ほどの秀吉を差し置いて、こんな大胆なことはできないはずだ
しかも秀吉は、NHKの書籍通りだとすれば新参者の三成に、欲しかった人材を横取りされたことになる
なのに秀吉は怒るどころか、三成の行動を誉めている
これは、相当の年数が経った間柄じゃなきゃ、作り話としか思えない内容である
コーエーが専門家(歴史研究家)を雇ってゲーム構成に使われた資料によると、三成は子供の頃から秀吉、おねと共に大坂で暮らしていたそうだ
(実際秀吉はほとんどの時間を伏見城で過ごしており、三成も京都に屋敷があった)
子供の頃から世話になっているのなら、秀吉が欲しがっていた勘兵衛を召抱え、秀吉にそれを誉められるのも納得できる
気心は知れているだろうから
名前にしても、そうだ
当時は15歳の元服を迎えると、家族が付けた幼名を改名する慣わしがある
三成の幼名は佐吉
そこから『三也』に名を変えている(後に『三成』と改める)
秀吉に仕官する前は寺に居た三成が、こんな武家風の名前を付けるだろうか
三成が寺を出たとして、秀吉に仕えるまでどこで何をしていたのかが不鮮明すぎて、寧ろ『寺で小姓をしていた三成の才覚を見抜いた秀吉が連れ帰った』と言う説の方が説得力がある
ちなみに、三成が預けられていた寺の名前は『観音寺』
三成の実家の近所にある(約1.6km)
秀吉が信長の後継者を勝家と争った『賤ヶ岳の戦い』
NHKは「三成は先懸衆の中に名を連ねたが、臆病風に吹かれ手柄は立てられなかった」と書かれている
しかし、史書である一柳家記では「天正11年(1583年)、秀吉が織田氏筆頭家老である柴田勝家と対立した賤ヶ岳の戦いに従軍し、柴田軍の動向を探る偵察行動や、先駈衆として一番槍の功名をあげた」(Wikiに記載されているものを引用のまま)とあるそうだ
それを裏付けるものとしては、あの加藤清正が賤ヶ岳の戦いでの手柄として与えられた『賤ヶ岳7本槍』の話題を降られることが大嫌いだったそうだ
つまり、手柄を称える武勲はもらったが、実際は三成の方が先に手柄を取ってるから、それを思い出してしまって腹が立つから話題にしたくないってことじゃないだろうか
これだけ立証されたものがありながら、NHKのコミック版は尚も三成を侮辱している
NHK書籍「その後も三成が戦場で槍働きをすることはなかった」
三成は元々戦働き専門ではなく、補給物資の確保やそれ以外の裏方の仕事に回っていることが主だったので、槍働きをしてる場合じゃない
しかも、戦場に立っては他の武将にも負けないくらいの活躍はしている
ほぼ文武両道だったにも関わらず、随分な扱いを受けている印象が拭えない
裏方仕事専門であったなら、渡辺勘兵衛や島左近を召抱える必要は全くないことになる
三成が、自分には必要のない人材に自分の石高の半分以上を注ぎ込むほどバカな人間だとは思えないからだ
NHKでは『武功こそ立身出世の条件であった戦国時代に三成の戦下手はみじめなものだった』(原文のまま)と書かれている
戦下手とは、小田原攻略の際の『忍城陥落』を言っているのだろうか
だとしたら、とんだ誤解である
忍城が落とせなかったのは三成の責任ではなく、秀吉の傲慢さから来た結果だとどこのサイトにも大抵書かれている
忍城を水攻めで落とそうとしたのは秀吉であり、理由として水攻めには膨大な金が掛かるため、自分の経済力を見せ付けるために敢えて敢行したと、秀吉と三成との手紙のやり取りの中に伺える
三成が「忍城は水攻めには不向きですよ?」と書いているのに対し秀吉は、「良いからそのままやっちゃって」と返事をしている
(だいたいこんな感じのやり取りなので、100%正しくはない)
その後、「一応水攻めの準備はしましたけど、こちらの武将(三成の臣下以外)、誰も城攻めに動いてくんないんですけど?」と、手紙でぼやいている三成が居る
秀吉のわがままを聞くために無駄とわかっていながら、せっせと準備していた三成
可愛いじゃないですか
その後、秀吉は九州筑前・筑後の大名の席を与えると言っているが、それを断った
理由は、自分が九州の大名になったら、大坂で執務を司る人間が居なくなるから
と、NHK本では書かれているが、実際三成は1587年の九州征伐に参加し、博多奉行となり、博多を復興させた
その前に堺奉行にも任命されてるし、九州には加藤清正が居る
1585年には肥後半国と讃岐とどちらかを選べと言われ、肥後を選んだという逸話がある清正をそっちのけて、三成に筑前と筑後をやろうなんて話、どう考えたって辻褄が合わないのだけど
どうなってんの、NHK
また、権力を確たるものにしようと画策する家康が頻繁に行なった大名との縁組
これを三成が勝手にできないよう議会で決めたとしているNHK本だが、史実ではこれを固く禁止したのは秀吉で、その秀吉に死後、勝手に縁組を頻繁に行なった家康に激怒した三成が、利家と共に「これ以上勝手なことすんな」と止めたのだ
(「秀吉の死去により、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。家康は覇権奪取のため、三成と敵対関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと縁戚関係を豊臣氏に無断で次々と結んでゆく。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を、秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反するとして、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康も、豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した」Wikiより引用)
Wikiに書かれてること全てが正しいわけじゃないけど、NHK本よりかは正しいと思う
その後、三成の屋敷を加藤清正らが襲撃する
その三成を助けたのが家康だと書かれているが、実際三成のピンチを救ったのは佐竹義宣
家康は清正らを呼び出し「っめ!」って叱っただけである
結局、三成はこの一件で政治舞台から身を引かねばならなくなったのはNHKの書いてる通りだけど、最後までこの内容のどこに家康が三成を恐れたのか全く書かれていない
三成は、義に厚い
最後まで秀吉に尽くした
その義の重みは直江兼続や、真田幸村とは比べ物にならないくらいにさえ感じる
なのに、NHK本でこんなに軽く扱われているなんて
しかも、天下の国営放送が、某パクリゲーム同様江戸中期に悪意あって改竄された三成像をそのままマンガにしてしまっているのが嘆かわしい
こんなとこにお金払ってるみなさん、偉いね
あたしは払ってないよ
衆道の仲とまで噂された大谷とのやり取りも、ものすごく他人行儀
「お前が総大将じゃ他の武将が反目するから、お前は引っ込んで、毛利を総大将にしとけ、バカ」
とまではっきり言っちゃう大谷が、昨日今日逢ったばかりの人間に対する接し方に描かれてるのが、ものすごい残念
他にも書きたいことはたくさんあるけど、なんか疲れたので後日改めて
こうゆうブログサイトは大抵、管理人の独り言日記なので、気にしてはいけない
放送されたのは2005年なので、見ることはできない
DVDはないかと探したが、代わりにコミックで発刊されていた
嬉しくなって早速注文した
3日後には届いた
だけど、内容は三成専門サイトで検証されていたものとは全く違っていた
石田三成のイメージアップどころか、逆にイメージダウンになるようなことばかりが書かれていた
どうなってんだ
タイトルは『徳川家康が最も恐れた男・敗者 石田三成』
徳川家康は元々臆病者なので、当時のほとんどの武将を恐れてたんじゃないかと思う
「徳川家康が最も恐れた男」で検索すると、上杉景勝、直江兼続、真田昌幸、真田幸村の名前がヒットした
怖がってる人間がどんだけおんねん、て話し
多すぎやろ、普通に
内容は、救いようのないものだった
NHKでは「石田三成は近江の豪族の息子」とある
三成専門サイトでは「土豪の息子で、しかも貧乏だから口減らしで寺に預けられていた」らしい
姉川の戦いの時、NHKは「三成11歳」と書いてるけど、これは数え年なのだろうか
三成は1560年生まれなので、今で数えれば10歳なのだけど
一般的な、三成が秀吉に仕官した年齢は14歳
NHK本では18歳(恐らく数え年)で仕官したとされていた
しかも、自分から仕官を願い出たと書かれているけど、当時は自分で主君を自由に選べるような時代だったのだろうか
そんな武将、後にも先にも有名なとこでは前田慶次くらいしか思い浮かばないのだけど(足軽じゃあるまいし)
大抵は高額の石高で召抱えられるか、子供の頃にスカウトされるかのどっちかが大半
しかも、「憧れの秀吉に自分から仕官を願い出た(NHK書籍)」三成の力量もわからないうちに、秀吉は300石の知行(給料・三成にとっては初任給)を与えている
(これには200石とも400石とも言われており、一般には400石が主流で伝わっている)
なにかおかしい
金の使い方は上手かった秀吉が、そんな豪気なことをするだろうか
どこの馬の骨とも知れぬ三成に
しかも17〜8の小僧に
相手の力量を知ってから、知行は与えられるものじゃないのか
その初任給で三成は、渡辺勘兵衛を召し抱えている
仕官したばかりの人間が、秀吉や柴田勝家が欲しがっていた勘兵衛を、増してや主君である秀吉を差し置いて召し抱えられるだろうか
少なくとも、何年かの付き合いがなければ、「憧れていた」ほどの秀吉を差し置いて、こんな大胆なことはできないはずだ
しかも秀吉は、NHKの書籍通りだとすれば新参者の三成に、欲しかった人材を横取りされたことになる
なのに秀吉は怒るどころか、三成の行動を誉めている
これは、相当の年数が経った間柄じゃなきゃ、作り話としか思えない内容である
コーエーが専門家(歴史研究家)を雇ってゲーム構成に使われた資料によると、三成は子供の頃から秀吉、おねと共に大坂で暮らしていたそうだ
(実際秀吉はほとんどの時間を伏見城で過ごしており、三成も京都に屋敷があった)
子供の頃から世話になっているのなら、秀吉が欲しがっていた勘兵衛を召抱え、秀吉にそれを誉められるのも納得できる
気心は知れているだろうから
名前にしても、そうだ
当時は15歳の元服を迎えると、家族が付けた幼名を改名する慣わしがある
三成の幼名は佐吉
そこから『三也』に名を変えている(後に『三成』と改める)
秀吉に仕官する前は寺に居た三成が、こんな武家風の名前を付けるだろうか
三成が寺を出たとして、秀吉に仕えるまでどこで何をしていたのかが不鮮明すぎて、寧ろ『寺で小姓をしていた三成の才覚を見抜いた秀吉が連れ帰った』と言う説の方が説得力がある
ちなみに、三成が預けられていた寺の名前は『観音寺』
三成の実家の近所にある(約1.6km)
秀吉が信長の後継者を勝家と争った『賤ヶ岳の戦い』
NHKは「三成は先懸衆の中に名を連ねたが、臆病風に吹かれ手柄は立てられなかった」と書かれている
しかし、史書である一柳家記では「天正11年(1583年)、秀吉が織田氏筆頭家老である柴田勝家と対立した賤ヶ岳の戦いに従軍し、柴田軍の動向を探る偵察行動や、先駈衆として一番槍の功名をあげた」(Wikiに記載されているものを引用のまま)とあるそうだ
それを裏付けるものとしては、あの加藤清正が賤ヶ岳の戦いでの手柄として与えられた『賤ヶ岳7本槍』の話題を降られることが大嫌いだったそうだ
つまり、手柄を称える武勲はもらったが、実際は三成の方が先に手柄を取ってるから、それを思い出してしまって腹が立つから話題にしたくないってことじゃないだろうか
これだけ立証されたものがありながら、NHKのコミック版は尚も三成を侮辱している
NHK書籍「その後も三成が戦場で槍働きをすることはなかった」
三成は元々戦働き専門ではなく、補給物資の確保やそれ以外の裏方の仕事に回っていることが主だったので、槍働きをしてる場合じゃない
しかも、戦場に立っては他の武将にも負けないくらいの活躍はしている
ほぼ文武両道だったにも関わらず、随分な扱いを受けている印象が拭えない
裏方仕事専門であったなら、渡辺勘兵衛や島左近を召抱える必要は全くないことになる
三成が、自分には必要のない人材に自分の石高の半分以上を注ぎ込むほどバカな人間だとは思えないからだ
NHKでは『武功こそ立身出世の条件であった戦国時代に三成の戦下手はみじめなものだった』(原文のまま)と書かれている
戦下手とは、小田原攻略の際の『忍城陥落』を言っているのだろうか
だとしたら、とんだ誤解である
忍城が落とせなかったのは三成の責任ではなく、秀吉の傲慢さから来た結果だとどこのサイトにも大抵書かれている
忍城を水攻めで落とそうとしたのは秀吉であり、理由として水攻めには膨大な金が掛かるため、自分の経済力を見せ付けるために敢えて敢行したと、秀吉と三成との手紙のやり取りの中に伺える
三成が「忍城は水攻めには不向きですよ?」と書いているのに対し秀吉は、「良いからそのままやっちゃって」と返事をしている
(だいたいこんな感じのやり取りなので、100%正しくはない)
その後、「一応水攻めの準備はしましたけど、こちらの武将(三成の臣下以外)、誰も城攻めに動いてくんないんですけど?」と、手紙でぼやいている三成が居る
秀吉のわがままを聞くために無駄とわかっていながら、せっせと準備していた三成
可愛いじゃないですか
その後、秀吉は九州筑前・筑後の大名の席を与えると言っているが、それを断った
理由は、自分が九州の大名になったら、大坂で執務を司る人間が居なくなるから
と、NHK本では書かれているが、実際三成は1587年の九州征伐に参加し、博多奉行となり、博多を復興させた
その前に堺奉行にも任命されてるし、九州には加藤清正が居る
1585年には肥後半国と讃岐とどちらかを選べと言われ、肥後を選んだという逸話がある清正をそっちのけて、三成に筑前と筑後をやろうなんて話、どう考えたって辻褄が合わないのだけど
どうなってんの、NHK
また、権力を確たるものにしようと画策する家康が頻繁に行なった大名との縁組
これを三成が勝手にできないよう議会で決めたとしているNHK本だが、史実ではこれを固く禁止したのは秀吉で、その秀吉に死後、勝手に縁組を頻繁に行なった家康に激怒した三成が、利家と共に「これ以上勝手なことすんな」と止めたのだ
(「秀吉の死去により、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。家康は覇権奪取のため、三成と敵対関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと縁戚関係を豊臣氏に無断で次々と結んでゆく。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を、秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反するとして、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康も、豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した」Wikiより引用)
Wikiに書かれてること全てが正しいわけじゃないけど、NHK本よりかは正しいと思う
その後、三成の屋敷を加藤清正らが襲撃する
その三成を助けたのが家康だと書かれているが、実際三成のピンチを救ったのは佐竹義宣
家康は清正らを呼び出し「っめ!」って叱っただけである
結局、三成はこの一件で政治舞台から身を引かねばならなくなったのはNHKの書いてる通りだけど、最後までこの内容のどこに家康が三成を恐れたのか全く書かれていない
三成は、義に厚い
最後まで秀吉に尽くした
その義の重みは直江兼続や、真田幸村とは比べ物にならないくらいにさえ感じる
なのに、NHK本でこんなに軽く扱われているなんて
しかも、天下の国営放送が、某パクリゲーム同様江戸中期に悪意あって改竄された三成像をそのままマンガにしてしまっているのが嘆かわしい
こんなとこにお金払ってるみなさん、偉いね
あたしは払ってないよ
衆道の仲とまで噂された大谷とのやり取りも、ものすごく他人行儀
「お前が総大将じゃ他の武将が反目するから、お前は引っ込んで、毛利を総大将にしとけ、バカ」
とまではっきり言っちゃう大谷が、昨日今日逢ったばかりの人間に対する接し方に描かれてるのが、ものすごい残念
他にも書きたいことはたくさんあるけど、なんか疲れたので後日改めて
こうゆうブログサイトは大抵、管理人の独り言日記なので、気にしてはいけない
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