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- The blog site of only an Sengoku Musou2 (Samurai Warriors 2). By Haruhi -

わたしは何故、もっと早くこの本と出逢わなかったのだろう
今も後悔している
この本に出逢えれば、わたしは無駄なお金を使わずに済んだのにと
今まで買った本の全てがゴミに見えるほど、この本では目からうろこの三成さん像があった
実際の人物像に関しては、それほど記載されていない
人物像など、歴史の勝者がいくらでも書き換えてしまうので信憑性が薄いのだろう
著者はその信憑性の薄いことは書かない
だが最後には、三成さんの人物像に触れたのか大絶賛している
これはわたし個人の話で、ここに書くのもおこがましいし、増してや多方面の方々に迷惑を掛けるのを承知で書いてしまうが、わたしはこの本を手にとって、とても感激した
それは私見や個人的感情には一切流されず、忠実に史実を追って書かれていることだった
この当時三成さんは何をやって、どんなことをしたのかと言うことを中心に書かれている
こんなにも個人的感情を取り除いた秀逸な本は滅多に出逢えない
嬉しすぎてわたしは、このブログに宣伝よろしく貼り付けているくらいだ
この本は三成ファンなら買わなくてはならないと断言できるほど、素晴らしい本だと思った
嬉しさのあまり、わたしはこの出版社にメールを送った
ただスタッフの誰でもいいから、わたしがこの本を手にしてどれだけ嬉しかったという、ただそれを誰かを知ってもらいたかったからだ
だがわたしの送ったメールを手にしたスタッフさんは、嬉しいことにそれを著者に転送したのだ
まさかの事態が起きる
まさか著者本人から返事が来るとは、思っていなかった
その内容をここで書くわけにはいかないが、内容は三成さんを絶賛する言葉の羅列だった
そこまで三成さんを買っておきながら、それでも本ではそんな感情などおくびにも出さずただ冷静に、当時の様子を検証している
それだけでも、この著者の人柄には惚れ込める
そして信頼に値するとも確信できた
今では三成さんの教科書だと信じて疑わないこの『敗者から見た関ヶ原合戦』は、現在も根強く定着した『風説』を尽く覆している
この本がいつか三成さんにとっての『定説』になることを願ってやまない
内容のどれもが興味深い
先ず、西軍の正規な大将はやはり三成さんであることを指摘している
実務的な大将と言うだけで、実際の総大将は大坂城から動かなかった毛利輝元であるのも事実のようだ
ここで通説となっている大谷の、「日頃のお前の態度では、着いて来る者も着いて来ない。だから今回は裏方に回って、総大将は毛利に頼め」と言う内容の話が、ここで辻褄が合って来る
かくして中国の毛利を総大将に担ぎ上げることには成功したが、肝心の毛利が動かない
おまけに輝元の兄弟全員も日和見を決め込み、最終的には徳川に寝返っている
そして輝元自身、「全ての責任は三成にある。自分は総大将を引き受けただけだ」と言い訳をしている
要するに毛利一族は初めから、西軍(三成さん)に着くつもりはなかったのではないかと言うことが伺える
では何故、そんな毛利一族が西軍の陣内にいたのかと言う疑問が生まれるが、世間では初めから寝返るつもりで西軍に着いたと言うのが一般的見解のようだが、わたしは自分の希望としての意見で、『西軍には秀吉未亡人・おねが着いていたから』と言う、全く想像でしかないこれを心に抱えている
おねさんの影響力は、正直言って家康の比ではなかったからでは?と
家康が関ヶ原に勝てたのは、長年培った『戦術』と言うのもあるだろうが、大半は『金に物を言わせて大名たちを転がした』と言う事実
金や権力に弱い人間の本性を見事に突いた作戦だと思う
通説では関ヶ原は越後の直江兼続と共謀して起されたとあるが、その通説もこの本は真っ向から否定している
と言うのも、関ヶ原のきっかけとなった『直江状』そのものが存在しないことと、この頃の三成さんはとにかく隠密裏に動いているため、遠方にある越後とは頻繁に連絡できようがなかった
三成さんの居る佐和山(滋賀県)と、兼続の居る越後(越後だとしたら新潟県)の間には、家康が居るのだから
軍事にも歴史にも明るくないわたしですら、密かに家康討伐を計画していた三成さんが、敵に発覚するかも知れない危険性を孕みながら兼続と連絡を取り合うのはあり得ないのではないかと思う
現に、三成挙兵の際、信濃(長野県)の真田昌幸が怒りの書状を三成さんに送っている
その返事に三成さんは、「誰が敵か味方かわからない状況で、人にこの作戦を話すことはできなかった」と応えている文献が存在するらしい
■■■直江兼続は石田三成の友達ではない■■■
これは以前、彦根を訪れた際に彦根在住のご老人から聞かされた話である
兼続は三成さんの友達ではなく、三成さんの軍師である島左近の友達であると言うのだ
その理由は至って明快で、「同じ軍師同士だから」と言うもの
これはどこのサイトにも載っていない内容だった
現地に行かなければ、聴かされることのない話しだったろう
景勝が兼続を伴ってかどうかわからないが、この二人は一心同体的な存在なので、恐らく家康に謝罪に行く際にも兼続を伴ったと思われる
その場で景勝は「三成とは関係ない。だから関ヶ原も自分は協力した覚えはない」と言い切ったのではないかと思われる
それを思い浮かべた時、わたしは景勝にも、そして兼続にも嫌悪感を覚えた
だが彦根で聞いた「三成と兼続は友達ではない」の一件で、その辻褄が合うことを確信した
この本を読み進めていると、元々『関ヶ原は三成と共謀した兼続が家康を挑発するために直江状なるものを送り付け、見事その策にはまった家康が会津討伐に乗り出し、その背後を三成が突いた』と言うのが、半分正解で半分間違っていることに気付いた
三成さんは家康が会津討伐に乗り出すのを知っていた
そして会津に向け出発するであろう家康を、その背後から突くつもりだったのだ
三成さんは家康の、会津討伐を利用しただけではないだろうか
とすれば、景勝にとっては「別に三成と共謀した覚えはないのに、共犯扱いされるのは心外だ」となる
そうなると、長谷堂での一件も三成さんとは一切関係ない話であろう
景勝にとっては「自分は関ヶ原開戦のため利用された」だけなのだから
三成さんの強かさが伺える
■■■秀吉の未亡人・おねは、東軍(家康)ではなく西軍(三成さん)に肩入れしていた■■■
通説ではおねさんは、豊臣の将来も考えて家康と結託していた。とされている
そうすると三成さんは茶々(淀殿)と内通していたと言うことになるが、もし現実に茶々が三成さんと内通していたのなら、何故関ヶ原の後豊臣には何のお咎めもなかったのだろうか
そして「おねは東軍派」と言うことを未だ本にする歴史研究家達は、この、あまりにも単純な疑問を解決できないのだろうか
わたしも感じていた疑問を、この本は見事晴らしてくれた
本書第一章3項目目にその答えが書かれている
『北政所の真意は通説どおりか?』と、『西軍に心を寄せていた北政所』である
『北政所の真意は通説どおりか?』には、「秀吉の遺児秀頼には「まんかかさま」と慕われており、彼女自身も秀頼を可愛がっていたという」と、しっかり書かれている
通説での、「淀殿に嫉妬した北政所が家康と内通して東軍に味方し、小早川秀秋が寝返った」と言うのが、全くの出鱈目である可能性も浮かび上がる
当時の北政所は、秀吉亡き後もそのカリスマ性を失っては居なかった
大勢の民の支持を受けているのだ
政治の舞台には上がらなくとも、彼女には相当の権力がその手にあったと想像される
一括りに「大阪では」と発言するのはあまりにも幼稚だろうが、北政所の人気は400年を経った今でも根強い
天下の御台所様である
この大阪の発展に大きく貢献した人物であり、実際大阪で生まれ育ったわたしは子供の頃から「北政所はすごい女性だった」と聞かされている
その彼女が、自ら破滅の道を辿るだろうか
おねさんはその周囲からも「秀吉には過ぎたる女房」との評価がある
そんな女性が、一時の感情で動かされるだろうか
先見の明のある女性が、家康の危険性を見抜けなかったとは思えない
『西軍に心を寄せていた北政所』では、今までの通説を全て覆せるようなことが書かれている
通説だとおねさんは「世話になった家康に恩返しするためにも、あなたは東軍に着くべきです」と秀秋を説得させたとある
が、わたしはこれをどうしても信じることができなかった
そしてこれが、おねさんの影響力を考え、徳川がでっち上げた虚像であることを知った
その理由として、おねさんの実家である木下家(木下家定・おねさんの実兄)から、7人の内6人の息子が全員西軍として戦っているのだ
残った一人は、秀吉によってその人生の大半をメチャクチャにされた、小早川の養子・秀秋である
実子のいなかった秀吉の勝手で養子にされ、邪魔になったらなったで小早川に養子に出され、挙句の果ては朝鮮での失態を攻められ追放されてしまったのだ
これは秀秋でなくとも腹が立つ
そんな秀秋を助けたのが人情家・家康である
家康はとにかく人助けが大好きなおっさんであった
秀秋は初め自分を助けてくれた家康の味方をしたかった
だが、豊臣の出と言う立場が邪魔をして、中々家康に近付くことができない
増してや西軍には、子供の頃から自分を可愛がってくれたおねさんが居る
どちらに味方すれば良いのか
どれだけ家康に恩義を感じていても、周囲は『秀秋は豊臣家の人間だから』と言う目で見られ、敵視されている
ここで是非ともこの文章を紹介したい
「北政所の側近である孝蔵主は、巷間、北政所の命で加藤清正や福島正則らに家康につくよう支持したとされる人物であるが、孝蔵主の弟の子、つまり孝蔵主が親代わりを務めた甥たちもすべて西軍につき、自らの末弟も西軍として家康を相手に戦っている」(本書より)
最近新たに購入した本にも、「北政所を孝蔵主は東軍を支持していた」と書かれていた
これだけの事実を突きつけられても、未だ通説や歪曲されたまがい話を信じて本にするおバカさんが多い中で、この本の秀逸さをどう表現すれば良いのかわからない
そして、おねさんが西軍派であることを明らかにしているのが、宇喜多秀家が豊国社(秀吉の墓がある場所)で行なった関ヶ原の戦勝祈願に名代を出席させていることや、毛利輝元が行なった戦勝祈願におねさん自身が出席していることを『舜旧記』という書物にしっかり残されているのだそうだ
次々と、三成さんの汚名をこの本は晴らしてくれている
戦下手ではなかったこと、秀吉から与えられた権力を振りかざしていたわけではなかったこと、おねさんが西軍を味方していたこと
まぁ、多少は性格の悪さもあっただろうが、大大名の家康相手に戦を起せるだけの力を持っていたのだ
悪意を持って事実を歪められ、その実像の全てを握り潰されたとしても、それでも今も三成さんを慕う人間は多く、今もその人数は増え続けている
三成さんの最大の不幸は、やはり清廉潔白なその性格ではなかろうか
その時代に置いて、現代に置いても真っ直ぐすぎた
豊臣を思いすぎた
愛されすぎ、そして、憎まれすぎた
全国の大名を駆り出した関ヶ原は、秀秋の寝返りであっけなく幕を閉じた
だが、これだけの規模の戦を起した武将が、今まで居ただろうか
謙信・信玄の時代も、信長の時代になっても、秀吉の時代、そして家康に天下が渡った時代でも、この日の本の国全体が戦場になった戦はない
源平の時代に置いても同じ
戦国時代のきっかけとなった応仁の乱も、それよりずっと以前の壬申の乱でも、舞台は西日本に傾倒している
南は九州、東は奥州まで
三成さんの挙手で起きた、歴史上最大の関ヶ原合戦は三成さんの斬首で幕を閉じた
そして400年を経った今、三成さんの正しい姿は未だ広められては居ない
わたしはこの本に出逢えてよかったと、今も思っている
これ以上の本にはもう出逢えないんじゃないかとさえ、思っている
この著者には是非とも、三成さん本の第二弾を手懸けていただきたい
敗者から見た関ヶ原合戦
それは三成さんの人物像や性格を伝えるものではなく、純粋に三成さんの生き方、考え方、行動を伝えている
わたしにはそれだけでも、大収穫なのである
性格や人格なんか二の次
人間どこか欠点はあるものだ
それを毛嫌いして人は先入観で物事を図る
そのため、三成さんの人物像や人柄が上手く伝わらないのが今の日本である
1の真実より99の偽りを信じる
多数派に頼ってしまうのが人間であり、原点でもある
三成さんは、数に頼った戦をしようとはしていない
数よりも知能で戦おうとしていた
三成さんの負けた原因
わたしは数ではなく、経験ではないだろうかと考えた
家康でなかったら
戦う相手が清正や正則だったなら、三成さんの圧倒的勝利で終わっていただろう関ヶ原
戦った相手が家康だからこそ、三成さんは敗戦の将となってしまった
運が悪かったと言えばそれまでだが、運を味方に付けれる力を、残念なことに三成さんは持ってなかった
何故なら三成さんは、運ではなく実力であれだけの地位を築いた人だから
だからきっと、天任せな行動は取れなかったのだろうし、考えもしなかったのだろう
真っ直ぐすぎる性格が災いした幕引きだと、わたしは思った
そして、三成さんを知れてよかったと思った
今では嫌いだった家康も、少しは認めることができたから
認めるとは、好きになるということではない
今も大嫌いで一生ゴキブリに生まれ変わって人から忌み嫌われる存在であり続けろとも思っている
家康の『認める』部分は、非道な心の中に少しは温かみのある人間だったことを認めると言う意味である
信長によって滅亡に追いやられた武田の旧家臣団を救済したり、秀秋に救いの手を差し伸べたり、三成さんの遺児の全員を見逃したりと、温情がある
それ以上に非情な部分があるから好きになれないだけで、家康の狡猾さはどうしても嫌悪する
わたしは三成さんの縁者でもなんでもない、全くの赤の他人だが、三成さんとの共通点を見付けた
それは
自分の非は絶対に認めない
という点だ(汗
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